正月16日に板倉左近将監より呼状が来て、17日に参上したところ、18日の五つ時(午前8時)に牧野備前守宅の寄合へ来るよう、書付で仰せ渡しがありました。その席で、地蔵堂の屋根の銅瓦葺きが許可されました。しかし、玄関については不許可となりました。
6月、地蔵堂前の水桶を建立しました。石工は松尾四郎兵衛です(明治29年「祐天寺」参照)。
9月22日、慈堪が寂しました。信哲(祐海の弟子で経蔵を建立した)の弟子で、山谷道林寺(矢野了源寺とも)の住職でした。法号は勝蓮社英誉上人慈湛和尚です。
尾道正授院(広島県)重誉は、徳川家の位牌を安置している寺院の由緒を書付にして、本山の求めにより提出しました。現存する書付控えには、元禄15年(1702)に長行念仏を執行するにあたり、当時の正授院住職了頓(良頓)が伝通院祐天上人に開白を依頼したこと、祐天上人に深く帰依していた桂昌院がこのことを聞かれて正授院に調度品を寄進されたこと、桂昌院逝去後に徳川家代々の位牌と茶湯料が納められたことが書かれています。
10月7日、毛利重就が逝去しました。瑞泰院(明和6年「祐天寺」参照)の夫君であり、祐天寺に常念仏堂(文政8年「説明」参照)を建立・寄進した人物です。重就と有馬家養源院殿(重就の娘、有馬頼貴室)、蘭蹇院殿(松平下総守忠啓室)の法号を記し、祐全が名号を書いた阿弥陀三尊来迎図が祐天寺に所蔵されています。