2月3日、本丸大奥より表使い菊野が来寺し、蘓明院殿(家治)の遺金のうち祠堂金として500両の拝領を仰せ付けられました。このときの老女は高岳、常磐井、万里小路、梅の井、瀧川、野むら、大さき、高橋の8名です。
3月12日、お礼として老女8名連名に、満願寺酒(摂津池田村で造っていた銘酒)5升(約9リットル)入り2樽、煮染め11組を、表使い5名連名に、満願寺酒5升1樽、重1組を差し上げました。
24日、別にお礼として高岳、瀧川、高橋に金1分2朱上り、菓子折3通りを差し上げました。
27日、本丸老女高岳、瀧川、高橋へ手紙を出し、いただく500両を大切に護持したいので、大奥で預かってもらえないかどうかを尋ねました。さらにおきまが参詣した折に詳しく相談し頼んだところ、おきまからの返事に、菊野から老女へ相談した結果、預かった書付に老女の名を記すことはならないので、表使いの名と印形にするということを知らせてきました。
4月2日、表使い菊野が預かりの世話をしてくださることになりました。利息は2月と9月に払ってくださることになりました。
8月23日、蘓明院尊牌供養として本堂で観経読続が行われ、本丸大奥万里小路、常磐井、表使い菊野が参詣し、焼香しました。
6月8日、吉辰につき、本堂銅瓦普請に取り掛かるよう、講中と相談のうえ、請負人三河屋佐兵衛に申し付けました。総入用高は621両2分です。千部修行までには完成しないので、7月13日までで職人は休み、8月8日より再び取り掛かって10月初旬までに成就するという予定です。
講中に以前より日掛けを頼んでおいたところ、しだいに奉納金が集まり、10月26日に講中世話人の9人が立ち会って勘定すると、総日掛け寄高は1、361両1分でした。
9月、地蔵堂と玄関の屋根を銅瓦葺きにしたいという願書を、増上寺役者の添簡とともに板倉左近将監へ差し出しました。
10月6日、牧野備前守役宅の寄合に呼び出され、その席上で板倉左近将監が願書を読み上げ、追って沙汰に及ぶ旨の仰せ渡しがありました。
11月9日に来た板倉左近将監の呼状により、10日に参上したところ、役人吉田竹右衛門が出会い、書付を渡されました。銅瓦を願った堂が何堂であるか、地蔵堂も含めて書き、また銅瓦の坪数を書き、銅瓦の場所を朱絵図にして差し出せということでした。
また、この年に阿弥陀堂の屋根を銅瓦葺きにする修復を行いました。信者の寄進が多く、余った銅で地蔵堂を銅瓦葺きにする修復も行いました。
松平香山(柳沢信鴻。天明7年、寛政4年「祐天寺」参照)は祐天寺地蔵堂扁額を完成し、7月14日に祐天寺へ渡しました。15日、額は堂上に掲げられました。額には「開山本地堂 蘇明居士香山拝書」と書かれています。
冬、祐全は野村自観供養碑の文を撰述しました。自観は上丸子村(神奈川県川崎市)の農民でしたが、この地方に多い潅漑溝に橋がなく、農民が冬でも歩いて渡っているのを憐れみ、50余か所もの石橋を架けました。仏教を篤く信奉し、3万3、400遍もの日課念仏を称えていました。祐全の碑文は、天明4年(1784)から天明8年(1788)までの間に自観の日課念仏が6億余万遍にのぼったので、この碑を建立して衆生が浄土に往生する縁を結ばせようと思う、という内容です。
碑は祐天寺に建立され、その後、自観の末裔によって家族の菩提を供養するために戒名が刻まれました。
12月、閻魔像を再興しました。本願主は覚道坊、仏師は小倉七右衛門です。
8月8日より江戸桐座で、『高雄宮本地開帳』が初演されました。瀬川如皐の作で、伊達騒動の世界と累与右衛門の世界が綯い交ぜになっている作品です。