明顕山 祐天寺

年表

天明7年(1787年)

祐天寺

祐全、住持交代礼式を定む

9月に大坂源正寺(宝暦11年「祐天寺」参照)の檀隆が隠居しました。その後住に円随を任命した折、祐全は住持交代礼式を定めて遣わしました。開山(祐天上人像)前には金200匹などと、礼式の規定として供える金額が定められています。

参考文献
『寺録撮要』5

将軍宣下のご祝儀に登城

4月15日、徳川家斉は将軍宣下を行いました。そのご祝儀のため、11月16日、暁六つ時(午前6時)祐全は登城しました。お目見えし、上意によりお能見物を仰せ付けられました。料理は2汁5菜を頂だいしました。七つ半時(午後5時)退出し、宿坊に泊まりました。翌17日、昨日のお礼回りに回りました。

参考文献
『寺録撮要』3

香山、参詣

10月17日、松平香山(柳沢信鴻)が祐天寺に参詣しました。
身代わり名号・祐天上人舌根・舎利のほか、祐天上人像、地蔵菩薩像などを拝観しました。
香山は柳沢吉保の子である柳沢吉里の子として生まれ、俳人・観劇家として知られていました(天明8年・寛政4年「祐天寺」参照)

参考文献
『松鶴日記』2(柳沢信袋、ゆまに書房、1981年)

祐天上人像、補修

増上寺に蔵する祐天上人像は、上人が文昭院殿(家宣)の葬儀の導師を勤めた翌年の正徳3年(1713)に京都の仏工・七条佐京が造立したもので、77歳のときの像です(正徳3年「祐天上人」参照)。7月12日に報恩のため、祐全と霊巌寺の祐水、そのほか法孫弟子らは、この像を修復しました。腹内に祐全直筆の文章と名号を納めました。

参考文献
『寺録撮要』1

人物

徳川家斉

安永2年(1773)~天保12年(1841)

徳川家斉は一橋刑部卿治済の嫡子として生まれました。10代将軍 徳川家治に子がなかったため天明元年(1781)に養子となり、天明7年(1787)に将軍職を継ぎました。

前代に権勢を振るった田沼意次は罷免され、幼少の将軍を補佐して政治の中心に誰がなるかは重要な課題でしたが、やがて徳川御三家・御三卿の意見を参考にして老中首座に任じられたのが、白河藩主 松平定信でした。

定信は寛政の改革と呼ばれる改革を行い、物価を安定させ、かつ財政支出を抑える政策を取りました。しかし、定信は寛政5年(1793)7月、突如失脚しました。定信の失脚後は家斉の親政が始まりましたが、松平信明ら定信と同調していた人々によって寛政の改革は継続されました。

寛政9年(1797)には、田沼時代に老中だった水野忠成が世子付の老中となり、信明が文化14年(1817)に老中首座を辞職したのちは、忠成が権勢を振るうようになりました。忠成は家斉やその父の治済、また大奥に接近した政治を行い、幕政は綱紀が緩みました。

家斉は、自分におもねる忠成を近臣に得て、放縦な政治と私生活とを行っていきました。文政5年(1822)3代将軍 家光以来ほかには例のなかった左大臣になり、文政10年(1827)には太政大臣になりました。

また、側室は40人を数え、そのうち16人が28男、27女をもうけるという状況でした。成人するまで存命した子女は少ないとはいえ、55人の子女の養育費は大変で、おやつの菓子を作るのに白砂糖を1日に1、000金(約600キログラム)も使ったと言います。

成人した子女の身の振り方も頭の痛い問題でした。幕府財政は窮乏していたため、新しく大名に取り立てることはせず、大名家に養子に出したり、嫁にやったりしました。

例えば、御三家の1つの尾張家には寛政6年(1794)に第1子の淑姫を藩主 宗睦の嗣子 五郎太に嫁がせました。しかし、同年のうちに五郎太が逝去したため、第6子敬之助を宗睦の養嗣子としました。ところが3年後に敬之助も亡くなったため、家斉は淑姫を家斉の甥である一橋覬千代と再婚させて、寛政10年(1798)に覬千代を尾張家の養嗣子として縁組みさせたのです。覬千代は尾張10代藩主斉朝となりました。さらに、斉朝に子ができなかったため、家斉は天保5年(1834)、第46子の斉温を斉朝の養嗣子とさせました。5年後に斉温は逝去してしまい、次には田安家の養子にしていた第30子の斉荘を尾張家の養嗣子としました。

将軍の奢侈な生活の気風は一般庶民にも影響を及ぼし、この時代には退廃的・刹那的気風が生まれました。文化のうえでも退廃的・官能的なものが喜ばれ、化政文化の1つの特徴となっていきました。

消費生活の拡大によって貨幣経済が浸透し、没落する農民も多くなりました。都市の貧民も増え、農民や都市貧民層による一揆や打ち壊しが増加しました。天保8年(1837)4月に将軍職を家慶に譲った家斉ですが、西の丸に退隠後も政治の実権を握り、大御所と呼ばれました。家斉隠退から薨御までを大御所時代と呼びます。そののち大御所時代という言葉は、社会が矛盾をはらんでいるのに、表面では泰平を謳歌している時代という意味で使われるようになります。

この時期は外国との問題も生まれ、さまざまな問題の山積する中、天保12年に家斉は薨御しました。祐天寺に位牌が納められています。家斉子息の清雲院殿の墓石が祐天寺にある(寛政10年「祐天寺」参照)ほか、関係者の法号も数多く祐天寺に納められています(文化14年「説明」参照)。

参考文献
「第11代徳川家斉」(津田秀夫、『徳川将軍列伝』、秋田書店、1974年)、「第11代徳川家斉」(中江克己、『徳川将軍100話』、河出書房新社、1998年)、「11代徳川家斉―泰平に退廃を招いた大御所―」(土肥鑑高、『徳川将軍15代列伝』別冊歴史読本22巻51号、1997年10月)
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