正月12日、田安家宝蓮院(『徳川幕府家譜』では法蓮院)が逝去しました。宝蓮院は近衛家久の息女で森姫と言い、田安宗武に嫁ぎました。落飾ののち宝蓮院と号しました(宝暦6年「説明」参照)。
2月6日、祐全は松平伯耆守役宅の寄合へ召し出され、その場で掛かり堀田相模守より地蔵堂と後方の堂守を置く場所の件を、願いどおり許可されました。即日、増上寺役所へ届けました。
6月、地蔵堂建立の件を新地奉行に絵図を添えて届けました。
6月15日、祐全は越前(福井県)大野善導寺所蔵祐天上人名号の裏に墨書しました。善導寺12世長冏宛てのもので、表の名号は祐天上人の染筆に間違いないことと、善導寺7世円随が祐天上人の随従だったというご縁があることから奉納する旨が書かれています。
霊元院震娜(手紙)は近衛関白より田安御簾中(宝蓮院殿のことか)へ差し上げたものですが、6月に祐全が拝領しました。
8月9日、岩附(埼玉県)浄安寺の祐山が遷化しました。祐海の弟子だった人物です。信州の清水の出身で、初めは祐清と言いました。法号は心蓮社寛誉上人生阿祐山和尚です。
9月3日に祐全は、現在は幡随院(東京都小金井市)で所蔵している祐天上人名号の裏書を記しました。表の名号は祐天上人の真筆に間違いないと書かれています。
9月8日、将軍徳川家治が薨御しました。10月20日、増上寺役者中より納経・拝礼を勤めるよう、仰せられました。23日、法事掛かり堀田相模守、阿部備中守へお礼に参上しました。
25日、増上寺にて法事が行われ、祐全は納経・拝礼を勤めました。何事も以前のとおり行い、お掛かりの寺社奉行の宿坊へ届けました。
9月晦日、本丸老女高岳より手紙で、家治(蘓明院殿)遺金のうち30両を内々に祠堂金として拝領することを知らされました(天明8年「祐天寺」参照)。
閏10月28日、納経について施物鳥目30貫文、代金7両2分を増上寺役所で頂だいし、お掛かり奉行2か所へお礼に回りました。
西丸の大納言徳川家斉が本丸へ移ることになりました。それにつき、祐全は11月9日、代替わりのご祝儀のため登城しました。下城してから老中、若年寄、寺社奉行、御側御用御取次へお礼回りをしました。
11月22日、祐全は仰せにより登城し、時服を拝領しました。役人へお礼回りをしました。
立花家の人々の法号も、祐天寺に多く納められています。立花家とは、源頼朝の血筋を引く清和源氏の家系です。没後、祐天寺に常念仏堂が建立された瑞泰院殿は、柳河藩(福岡県)5代藩主立花貞俶の姫でした(明和6年「祐天寺」参照)。
その貞俶室の千姫(珂月院殿淨誉遊岩光澄大姉)のほか、3代藩主の鑑虎(英山)の妹(法光院殿妙典日等大姉、永井越中守尚長室)、4代藩主鑑任の室(馨香院殿蓮誉宝池澂映大姉、池田綱政女)など、いく代にもわたる血縁者の法号が納められています。
瑞泰院殿の弟で7代藩主となった鑑通の正室の清姫(松平筑前守継高女)がこの年に亡くなり、法号(徳彰院殿圓誉一乗宝蓮大姉)が祐天寺に納められました。