6月24日に松平右京へ、本堂を銅瓦に修復する折の、銅瓦と材木置き場の仮小屋を作る件を届けました。7月22日にお聞き届けの由が役人神谷弥兵衛をもって仰せ渡されました。
またこの年、釣鐘堂を銅瓦葺きにしました。
6月25日、祐天寺4世檀栄の弟、岡田五郎右衛門が逝去しました。
8月14日、寺社奉行阿部備中守へ以前のとおり、来たる午年(天明6年―1786―)より10か年の間、千部修行を行いたいという願書を出しました。9月12日、許可が出ました。
10月10日、表門下馬札は風雨がかかるので文字が判読できなくなり、裏門下馬札は柱が前日の風で折れたため縄で結わえてあるとして、表裏両門の下馬札を建て替えてくれるように願書をしたため、寺社奉行月番松平右京役宅へ持参しました。役人関孫三郎に差し出したところ、添簡がないので添えるように言われ、増上寺役者の添簡をもらい提出しました。
同月19日、下馬札見分のため作事方役人が来寺し、役僧らが立ち会って見分が行われました。今まで柱が3寸8分(約12.5センチメートル)角であったところ、今度は4寸2分(約14センチメートル)角になると申し聞かされました。
25日、御鳥見衆が6、7人来寺され、広尾筋への御成を急に仰せ出られ、祐天寺は御膳所と決まり、来月初旬に御成があるだろうと申し聞かされました。
27日、御場見分として岡部河内守、小普請方岡本善蔵らが九つ時(正午)頃より参入し、寺中を総見分し、御座所の畳替えなどを申し付けられました。この折、岡本へ下馬札の建て替えがまだ済まず、裏門下馬札は縄で結わえた状態だがどうしましょうかと相談したところ、岡本より作事方へ掛け合ってみるとのことでした。29日、作事方より御手大工と役人が来て、役人立ち会いのもとで裏門下馬札柱に添え木を施しました。
11月4日、御成御膳所は滞りなく済みました。
同月10日、表門下馬札は建て替えが済みました。12日、御掛かり松平右京亮殿へ届書を出し、役人関孫三郎が受け取りました。
14日、裏門下馬札の建て替えが済み、15日に松平右京亮に届けました。建替えにつき、来寺した御徒目付や御小人目付、大工へ内々祝儀を遣わしました。
11月、寺社奉行月番堀田相模守へ、開山以来所持する地蔵菩薩像を祀る地蔵堂を新規に建立したいという願書を差し出しました。3間(約6メートル)四方で左右に3尺(約1メートル)の庇が付き、1間(約2メートル)に9尺(約3メートル)の向拝が付いた堂を造り、1か所だけ瓦屋根にし、地蔵菩薩像を安置する計画です。堂の後ろに2間半(約5メートル)に5間(約10メートル)の物置を作り、堂守を置く予定です。願書は預かり置きとなり、12月10日に見分のため役人荒井兆右衛門と橋本彦八が来寺しました。同日、祐全は2人に計画を記した1札と絵図を差し出しました。
10月23日、『泉谷瓦礫集』(天明4年「出版・芸能」参照)の著者である、恵頓が遷化しました。
恵頓は熹蓮社極誉願阿と号し、姓は吉沢氏で、摂州島下郡五箇庄忍頂寺村(大阪府)の出身です。
村の西福寺で仏門に入り、増上寺にも掛錫(滞在して修行すること)しました。学問に秀で、名文家として知られました。武州都築郡(横浜市都筑区)小机泉谷寺に住し、日に6万遍もの名号を称え、六時礼讃を行いました。
4月1日より大坂の中村粂太郎座で、累物の歌舞伎『善悪女の恋妬』が上演されました。作者は為川宗助、奈河七五三助です。高尾、かさね、松前鐵之助女房の3役を4代目岩井半四郎が演じました。
9月16日より中村座で、累物の歌舞伎『稚馴染累詞』切狂言4幕が上演されました。津打英子の作です。羽生村與右衛門実は山本勘助の役を市川八百蔵が、與右衛門女房かさねと高坂弾正の役を5代目市川団十郎が演じています。
宝暦11年(1761)~文化13年(1816)
山東京伝は宝暦11年(1761)8月15日に、江戸深川木場(江東区)で質屋を営む岩瀬伝左衛門の長男として生まれました。幼名は甚太郎、本名は岩瀬醒、画も良くして画号は北尾政演と言いました。安永2年(1773)、京伝が13歳のときに父が町屋敷の名主となり、一家は京橋銀座1丁目に移転しました。
安永7年(1778)、北尾政演として『お花半七開帳利益遊合』を初めて作りました。本文を京伝の作でないとする説もあり、論は分かれていましたが、最近は京伝の処女作とする説が有力です。安永9年(1780)、初めて黄表紙に作者京伝(「京橋の伝蔵」の頭字)の名を出しました。
天明5年(1785)刊行の黄表紙『江戸生艶気蒲焼』は大評判を取りました。またこの年『令子洞房』を執筆して洒落本の分野にも踏み込みました。しかし、当時は松平定信による寛政の改革が厳しく行われており、寛政元年(1789)出版の『黒白水鏡』(石部琴好作、政演画)が幕府の忌憚に触れました。画工として加わった京伝も科料に処せられ、以後は政演という名を使うことをやめました。
寛政2年(1790)2月、年季の明けた吉原扇屋の遊女菊園(おきく)を妻として迎えました。しかしこの年、出版物取締令が発せられ、京伝は前年の経験もあって戯作を断念しようと思いましたが、蔦屋重三郎の懇請により思いとどまりました。そして洒落本3部作、『娼妓絹籭』などを慎重に「教訓読本」と銘打って翌3年(1791)春に刊行しました。このとき作料の内金として金1両銀5匁(約6万5、000円)を受け取ったのが、江戸作者の稿料のはじめとも言われます。しかし、これらの作品は幕府の禁令に触れたとして絶版にされ、京伝は手鎖50日の刑に処されました。以後、京伝は洒落本の執筆をやめます。
寛政5年(1793)には妻おきくが先立ちました。同年秋、銀座1丁目に紙製煙草入店を開き、商人としての生活を始めるとともに、戯作をも続けようとしました。商売は成功を収めましたが、しかしそののちの作品には大胆な諧謔のおもしろみは失われ、当時ブームだった心学を取り入れて教訓色を強めた作品が多くなりました。
寛政年間(1789~1800)の半ば頃から伝奇的趣向の中型読本が滝沢馬琴(文化2年「人物」参照)らによって行われたことに刺激を受け、寛政11年(1799)と享和元年(1801)に『忠臣水滸伝』を刊行しました。浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵』に中国小説『水滸伝』の趣向を取り入れたもので、上方読本に対する新しい江戸読本の誕生と位置付けられています。寛政12年(1800)、京伝は新吉原の弥八玉屋の遊女玉の井を身請けして後妻としました。
文化年間(1804~1817)には、黄表紙は長編化して合巻という形を取りました。京伝はその合巻のほか、読本にも精力的で、芝居の登場人物を取り入れた『桜姫全伝曙草紙』(文化2年―1805―刊)などを書きました。この分野ではかつて門人であった馬琴との対立があったと言われています。
晩年は風俗・人物などの考証に興味を持ち、考証随筆『近世奇跡考』(文化元年―1804―刊)、『骨董集』(文化11年―1814―刊)を書き、高い評価を受けています。『近世奇跡考』には累の菩提寺である法蔵寺の記事(「羽生村累の古跡」)があり、また合巻『累井筒紅葉打敷』(文化6年―1809―刊、文化6年「出版・芸能」参照)、『婚礼累箪笥』(文化10年―1813―刊、文化10年「出版・芸能」参照)など累物の作品もいくつか書いています。
文化13年9月7日、京伝は胸痛の発作を起こして没しました。56歳でした。子はなく、実弟の戯作者山東京山が京伝店を継ぎました。