2月2日、京都知恩寺52世の騰冏が寂しました。
乘蓮社俊誉上人祐阿騰冏大和尚の法号が祐天寺に納められています。
騰冏は増上寺に学び、学頭寮主となりました。安永3年(1774)5月19日、感霊(天明3年「祐天寺」参照)のあとに小金東漸寺に住しました。同9年(1780)2月25日より同27日まで常行念仏1万5千日回向法会を行いました。天明元年(1781)11月、小金東漸寺より知恩寺に転住しました。同3年(1783)の飢饉(天明3年「事件・風俗」参照)にあたり、山内および門前の住人に施米をしました。
騰冏の弟子の騰巌、騰遵の法号も祐天寺に納められています。
8月4日、生実藩7代藩主・森川紀伊守俊孝の息女銀姫が逝去しました。生年15歳でした。
法号は成熹院殿光誉明覚大姉です。
10月17日、祐全は瑞泰院扁額の裏面に墨しました。「防長両州太守従四位少将式部大癆大江朝臣重就象御筆」とあり、扁額の表面の文字は毛利重就(寛政元年「祐天寺」参照)によるものだと記述されています。
この年、天英院殿仏殿を銅瓦葺きにしました。
雅山(大巌寺26世。宝暦7年「祐天寺」参照)は酉蓮社(開基は智瑛)の願主です。雅山がまだ増上寺の月行事であった頃、学徒を励ますため、明本の一切経を納めて報恩蔵を建立し、了誉の影像を安置して酉蓮社と名付けました。明和9年(1772)までに堂社は整いました。そのとき智瑛を開基とし、香衣(香衣を着て良い格式)の別院と定められました。酉蓮社は雅山のあとを練城が継ぎ、祐応、運理と続きます。
この年、小机(神奈川県)泉谷寺恵頓の文章を弟子の恵海が集めた書物である『泉谷瓦礫集』が刊行されました。この中に、『祐天大僧正傳』『祐海上人略伝』が収められています。
黄表紙『紅葉の雛形』が刊行されました。鶴一斎雀千声の作品で累物です。船宿羽生屋の女房おかねは、器量良しでしたが、夫の金策のためにきぬ川屋という遊女屋へ奉公に出ます。おかねは簪1本もすぐには貸さないのでそこでは「かさね」と呼ばれるようになります。桟橋から落ちて右足をくじき左目をつぶしたため、家へ帰りますが、夫与右衛門にはおきくという女ができており、おかねは愛想を尽かして家を出ました。与右衛門に金を貸している人々は皆おかねびいきだったため、いっせいに借金の取り立てに行きます。与右衛門は心を改めておかねを元に戻し、以後の羽生屋は繁盛するようになったという話です。