2月、耆山(寛政2年「人物」参照)の衣鉢塔の文を恵頓が撰し、塔は祐天寺に建立されました。恵頓の書いた「耆山上人衣鉢塔銘徭序」は『泉谷瓦礫集』(天明4年「出版・芸能」参照)に収められています。
5月、増上寺からのお触れで御鷹(将軍の鷹狩り用の鷹)の餌として寺社(寛永寺、増上寺、伝通院、山王神社、愛宕神社、氷川神社の6か所を除く)の境内にいる鳩を捕ることが許可されました。
6月13日、祐全は井上河内守へ願書を出しました。祐天寺は追福の釣鐘があり、下馬札も建っており、天英院、月光院の在世中は放生会を仰せ付けられ、浄岸院もたびたび諸鳥を放されているなどという理由を述べ、境内殺生を避けてくれるよう願いました。増上寺の添簡も添えました。
同22日、井上河内守へ願書の件でお伺いしたところ、役人藤森左太夫が出会い、伝えられました。殺生は格別の申し付けではなく、町奉行より寺社奉行所にお触れを出すように頼まれたため、触れてあっただけのことです。この間の願書の趣は町奉行山村信濃守へも達してあるし、貴寺には下馬札もあり並寺とは違うので、心配には及ばないということでした。
7月18日、練城が寂しました。法号は生蓮社貴誉上人貫阿練城和尚です。練城は酉蓮社(天明4年「説明」参照)の起立であり、雅山の直弟(「説明」参照)でした。練城の弟子に、のちに祐天寺8世となる祐応(初めの名は練山)がいます。同年に寂した感霊と練城が一緒の位牌および墓石が祐天寺に残っています。
9月18日、近いうちに御成の沙汰があるので御膳所を仰せ付けるということで、小納戸頭取岡部河内守、小野備前守、小普請方罔浦文左衛門、御徒仮役米田吉太夫、代官伊奈半左衛門が来寺し、見分しました。
26日、小普請方役人が来寺し、諸仕度がありました。寺社奉行堀田相模守より、明日が御成なので諸事に心を付け火の元に気を付けるよう役人をもって仰せ遣わされました。
27日は晴れ。家治は広尾筋へ御成になりました。九つ半時(午後1時)入御、八つ半時(午後3時)頃還御されました。献上物は長芋21本、蘇鉄1鉢です。それぞれ白木の台に乗せられました。お供の方は若年寄太田備後守、御側衆因幡越前守、同津田日向守、小納戸頭取岡部河内守、小野備前守、御先詰の小納戸青山播磨守、井田雅楽介、松平宇右衛門、河野仙寿院らでした。
料理の献立は盛分(かき・大根・さらし麩・岩たけ・かゐわり)、汁(小蕪・松皮・えのき茸)、香物(なつけ・沢庵・なら漬)、坪(銀杏・焼芋・木くらげ)、飯。二の膳に平(せり・揚麩・松茸)、二汁(ちくわ・えのき茸・団扇茄子)、猪口(ゆり)でした。これらは若年寄衆、御側衆3人へ出しました。御小姓衆、御小納戸衆へは別にお出ししました。またそのほか、黒膳350人前を仕度しました。
28日、各所へお礼回りに回りました。そのほか田沼主殿頭へ吹聴しにまいりました。寺社奉行堀田相模守より呼状が来て参上したところ、銀子5枚をお付き台で拝領しました。同屋敷へ再び参上してお礼申し上げ、増上寺へ届けました。
10月7日、京都金戒光明寺の45世、感霊が寂しました。感霊は雅山(宝暦7年「祐天寺」参照)の弟子です(「説明」参照)。法号は洞蓮社神誉上人感霊大和尚(『黒谷に眠る人びと』では洞蓮社山阿痴海)です。
65歳でした。金戒光明寺に墓石があるほか、同年に寂した練城と一緒の位牌および墓石が祐天寺にもあります。
檀通上人の菩提寺である伊豆広渡寺に、祐天寺2世祐海は正徳5年(1715)に白銀50枚のほか幡、打敷、幕、仏具類を寄進していました(正徳5年「祐天寺」参照)。しかしこの頃に広度寺の本堂より出火し、由縁の品は焼失しました(天保5年「祐天寺」参照)。
大巌寺26世で酉蓮社(天明4年「説明」参照)願主でもあった雅山(宝暦7年「祐天寺」参照)は多くの弟子を育てました。名を挙げると練城(「祐天寺」参照)、感霊(「祐天寺」参照)、慈海、義天、天猊、白天、昌栁(京都西照寺住職)、俊達らです。
感霊は享保4年(1719)摂津有馬に生まれました。明和8年(1771)6月28日、小金東漸寺32世となりました。安永3年(1774)5月19日、感霊は金戒光明寺に住しました。同5年(1776)12月27日、茶の間から出火し、御影堂、方丈、庫裏などが全焼しました。翌6年(1777)3月から寺院収入のすべてを再建に注ぎ、勧化を始めました。大名からも多くの寄進が寄せられました。安永6年に勢至堂を、同8年(1779)に大坂竜興寺を別院としました。同年11月に大庫裏上棟式を挙げ、同9年(1780)に台所を竣工し、天明2年(1782)に宝蔵を新築しました。また同3年に豊誉巡行勧化費として、50両を増上寺に寄進しました。
弟子の練城は酉蓮社の起立として、雅山の意志を継承しました。