2月20日、小納戸頭取河内守と備前守が御鳥見衆を同道して来寺され、近いうちに御成があり、祐天寺を御膳所にと仰せ出られたので、見聞のため参入すると仰せ渡しがありました。
22日、御用お材木、竹、丸太などを入れました。23日、左官がやってきました。24日、お道具が入りました。25日、御畳方役人川辺安右衛門が入来し、書院一之間の畳表を替えました。小普請方より幕張があり、また馬建が取り付けられました。御鳥見政次郎が来寺し、当日の仕度をしました。
26日、七つ時(午前4時)前より雨が降り、御成は延期になりました。それより御道具方は28日まで祐天寺に泊まっていましたが、予定が決まらないので帰宅しました。
3月1日、小普請方役人が入来し、それぞれお取り立てをし、御鳥見衆の見分がありました。3日、小普請方清水又八ほか諸役人は祐天寺に詰めることとなりました。同夜、寺社奉行牧野豊前守より検使役人が来て、御膳所を仰せ付けるので火の元を入念にするよう申し渡しがありました。
4日は快晴でした。前日に小普請方より指図のあったとおり、暁七つ半時(午前5時)に本堂の人々は引き払い、奥の次の間へ引き取りました。常灯明は奥へ移し、時計は次の間へ取り寄せました。本堂の戸障子は閉め切りました。
奥坊主2人、陸尺(雑役奉公人)4人へ役僧があいさつし、本日奥向きへ湯漬けを差し出すお世話を頼みました。御用部屋御先坊主大竹三説、菅沼寿盛へも役僧があいさつし、お供の若年寄方御側衆へ料理を差し出すことにつき、お世話を頼みました。
昼九つ時(正午)頃、10代将軍家治が表門より御成になりました。祐全は小普請方清水又八とともに御成御門外でお迎えし、家治はそれより御膳所へ入御されました。九つ半時(午後1時)還御の節は、仁王門までお見送り申し上げました。お供は若年寄太田備後守、老中格水野出羽守、御先御側衆小野日向守、御用御取頭稲葉越中守でした。献上物は長芋21本、海棠1鉢白木台付きです。
5日、御成が滞りなく済んだお礼回りをしました。役人中へ回り、寺社奉行月番牧野豊前守へ届けたところ、しばらく待つように言われ、このたびのお立ち寄りにつき、銀子5枚を下されました。いったん引き取ってからお礼を申し上げ、またこのことを増上寺役所へ届けました。
5月8日、長屋を建て替えるにつけ、御鳥見衆へ届けました。安永6年(1777)念仏堂建替えにつき、牧野越中守へ願い置き、聞き届けていただいてあったので、今回は古材木で取り建てる予定でしたが、材木不足で立木を伐採して使用しました。6月7日、長屋柱立上棟につき棟梁と惣大工へ祝儀を遣わしました。
三重県鈴鹿市の伊勢湾に面した港です。平安時代には平家の支配下に置かれ、『源平盛衰記』にも見られる伊勢平氏の水軍白児党の本拠地として、また江戸時代には紀州藩の庇護を受けて廻船問屋が建ち並び、松坂周辺から三河にかけて産出される木綿を江戸に運ぶ要港として栄えました。元禄時代(1688~1703)頃には江戸での木綿需要が増大し、白子の型紙を使った「江戸小紋」が人気を博して、白子の木綿が全国の市場を独占するまでになりました。
しかし、明治以降は紀州藩の保護を失い、人々の着物離れも手伝って、港は衰退の一途をたどります。諸外国との貿易が大型船によってなされるようになってからは、輸送力が四日市港などに移り、かつての賑わいは見られなくなりました。
2月18日より市村座で、累物の歌舞伎『隅田川柳伊達衣』が上演されました。笠縫専助らの作です。この作品には絹川谷蔵実は奴軍助、豆腐屋三郎兵衛、桔梗屋太夫高尾などの役名があったことが知られています。