明顕山 祐天寺

年表

安永09年(1780年)

祐天上人

銅瓦葺き―その1(本堂その他)

2月29日、祐全は寺社奉行太田備後守へ、銅瓦葺きに関する願書を増上寺役者の添簡とともに出しました。天英院御座の間を拝領したとき、御殿屋根などの銅を拝領したのですが、それを使用できるという理由で、仏殿、本堂、阿弥陀堂、釣鐘堂、仁王門を銅瓦葺きにしたいと願ったのです。銅は少々不足しますが、その分は開帳中に奉加を求めてこれに足したいと述べています。
3月28日、太田備後守役宅において、本堂、天英院仏殿、釣鐘堂、阿弥陀堂の4か所は願いのとおり銅瓦葺きを許可されました。仁王門は沙汰に及ばないということでした(天明8年「祐天寺」参照)。

参考文献
『寺録撮要』5

回向院にて開帳

本所回向院において4月朔日より、開帳を行いました。本堂、諸堂修復のための奉加を求めるもので、阿弥陀如来像、祐天上人像などを開帳しました。

参考文献
『寺録撮要』5、『武江年表』

西安寺に名号付き経塚、建立

7月8日、静岡県裾野市西安寺に祐天上人名号付き経塚が建立されました。浄土三部経を石に書写して塔の下に納めたようです。三島長円寺楽誉と西安寺覚誉を中心に、多くの人の協力によって建てられました。西安寺は寂天(祐天上人弟子。本芝西応寺住職)の弟子の祐林が住職をしていた寺院で、ほかに祐天上人名号付き石塔(寛延元年―1748―建立)も1基あります。

参考文献
経塚刻文(裾野市西安寺)、『寺録撮要』1

善光寺如来像、寄進

10月10日、厨子に入った善光寺如来像が寄進されました。厨子背面に、願主は大和州(奈良県)三輪大社神人賀杞弾正水原元輝入道浄観、「四十八躰之内/感夢示現尊像」とあります。浄観は48体造ったうちの1体を祐天寺に奉納したと考えられます。

参考文献
善光寺如来像厨子銘(祐天寺蔵)

金戒光明寺に名号付き宝篋印塔、建立

京都金戒光明寺に感霊(天明3年「祐天寺」参照)の祐天名号付きの宝篋印塔が建立されました。

参考文献
宝篋印塔刻銘(京都金戒光明寺)

寺院

祐月、知恩院住職に

8月(『華頂要略』では10月)、伝通院39世の祐月が台命を受けて知恩院住職となり、翌年4月には大僧正に任ぜられました。
在任中に起こった天明の大飢饉(天明3年「事件・風俗」参照)の際、祐月は食べ物に困った人々があまりに多いことを見兼ねて施米を行っています(天明4年「寺院」参照)。「祐月尊者」と称されるほどに人々から尊敬され、高徳の誉れが高い僧侶だったと伝えられています。

参考文献
『知恩院史』(藪内彦瑞編、知恩院、1937年)、『浄土宗人名事典』(大橋俊雄、斎々坊、2001年)

風俗

関東洪水

6月に入ってからというもの、雨は降り止まず河川の水は増すばかりで、ついに水があふれ出したのは26日のことでした。利根川、荒川、戸田川の堤防が決壊。水は山を越え、丘にも登る勢いで家屋を押し流し、田畑を飲み込みました。またたく間に武蔵・下総国は一面の大海原と化したのです。
江戸御府内第一と言われた両国川、隅田川も例外ではなく、永代橋(元禄11年「事件」参照)と新大橋(元禄6年「事件」参照)が水に流されました。逃げ遅れた人々は、屋根に登って水が引くのを待つよりほかにありませんでした。

幕府から窮民救済を命じられた関東郡代の伊奈半左衛門は、数十隻の船に米や銭を乗せて村々を回り、人々に物資を配り分けました。しかし、数日が過ぎてもいっこうに水が引く気配はありません。そのため、人々は普段見上げていた高い木の枝に小船をつなぎ、その船の上で10日余りも過ごさなければなりませんでした。
この洪水の影響で人々は家屋を失い、さらに隅田川より東側の水田が全滅したことで秋の収穫も見込めませんでした。若い人は子どもの手を引き、年寄りは孫を背負いながら、その日の食べ物を求めて江戸御府内に出入りする人々が絶えませんでした。

人々は今回の洪水を「人々難儀の此水を忘れまいぞや、子の年たんのう」と童謡にして唄い継ぎました。

参考文献
『燕石十種』(森銑三ほか監、中央公論社、1979年)、『江戸編年事典』(稲垣史生、青蛙房、1973年)

出版

『絹川物語』

『絹川物語』が刊行されました。伊庭可笑の作、鳥居清長の画の黄表紙です。信田小太郎の世界に累・与右衛門の筋がない交ぜてあります。
不器量の累が信田小太郎に恋慕し、傾城八はしを嫉妬のために責めさいなみ、最後は夫の与右衛門に殺されます。その後も亡霊となって与右衛門の後妻を5人まで取り殺し、娘の菊に取り憑きますが、祐天和尚の十念で済度(霊が救われ、成仏すること)されるという筋です。


『能天御利生』

 芝全交作、北尾政演画の累物の黄表紙『能天御利生』が刊行されました。
 博打好きの与右衛門は財産を使い果たし、酒飲みで朝寝好きのため、あだ名を「あさね」という醜い女房をだまして深川の夜鷹(最下級の娼婦)に売ります。『絹川物語』とともに、この年の開帳(「祐天寺」参照)を当て込んだ際物板行で、挿絵にも開帳の様子が描かれます。

参考文献
『歌舞伎年表』、『絹川物語』(東京都立中央図書館加賀文庫蔵)、『黄表紙総覧』(日本書誌学大系48、棚橋正博、青裳堂書店)、『能天御利生』(大東急文庫蔵)

芸能

『梅暦曙曽我』上演

正月15日より市村座で、歌舞伎『梅暦曙曽我』が上演されました。桜田治助、笠縫専助らの作です。3月3日よりこの演目に追加された幕に「與右衛門女房かさね」「羽生村與右衛門実ハ手塚太郎」などの役が登場します。

参考文献
『歌舞伎年表』、『絹川物語』(東京都立中央図書館加賀文庫蔵)、『黄表紙総覧』(日本書誌学大系48、棚橋正博、青裳堂書店)、『能天御利生』(大東急文庫蔵)

人物

横井也有  元禄15年(1702)~天明3年(1783)

横井也有は尾張徳川家に仕える横井時衡の長男として、元禄15年に名古屋で生まれました。横井家は伊豆の北条氏の流れを汲む名門で、尾張藤野に1、000石の知行地をたまわっていました。也有26歳のときに父が他界しますが、家督を継いだ3年後には御用人、40歳で大番頭兼御用人となり、のちには寺社奉行も兼務するなど、也有は堅実に出世していきました。

也有というのは俳号で通称は孫右衛門と言いました。このほかにも和歌を詠む際には暮水、狂歌のときには螻丸、漢詩のときには蘿隠と称していました。たくさんの雅号を持つことからもわかるように、也有は多趣味多才な人物であったようです。藩学では小出洞斎に儒学を学び、乗馬や射術、剣や槍まですべての奥義を極め、また平家琵琶や謡曲、書画、詩歌にも精通していました。

也有が俳句をたしなむようになったある日のことです。藩老の成瀬隼人が也有を自宅に招き、俳句のような卑俗なことに耽っていないで、その才能を藩のために役立てるようにと諭したことがありました。このとき也有は、即座に1句詠むことでその才能を示し、他道の妨げとはならないことを認めさせました。也有は美濃派の俳人と親しく付き合い、暇さえあれば俳句を詠んでいたようですが、在職中は公務をおろそかにせず忠実に勤めました。

也有は53歳で職を離れ、気の合った石原文樵とともに知雨亭に隠居しますが、この草庵には妻さえも近付けず、悠々自適な生活を送りました。旅に出ることはありませんでしたが、美濃派の俳人を中心に也有の名は広く知れ渡っていましたので、江戸の大島蓼太や甲斐の上矢敲氷といった多くの文人たちが草庵を訪れ、忙しい日々を送ったようです。

也有は俳句を好みましたが、また俳文(俳諧の持つ滑稽味や諧謔性のある文章。軽妙で洒脱なものが多い反面、人生観などを表したものもある)も得意としていました。也有の俳文は松尾芭蕉と比較して遊文派(文雅に徹していること)とされますが、高雅でユーモアあふれる也有の俳文を目にした大田南畝(文政6年「人物」参照)は大変感心したらしく、尾張の人に会うたびに也有の俳文を話題にしたそうです。

也有は80歳を過ぎた頃から病床に就き、天明3年6月15日に82歳の生涯を終えました。その5年後に南畝の手により也有の俳文集『鶉衣』(文政6年「出版・芸能」参照)が刊行されるのですが、これは也有の真骨頂と言われ、後世の俳人たちに大きな影響を与えました。

参考文献
『也有全集』(岡野知十校訂、博文館、1911年)、『江戸時代 人づくり風土記』23(ふるさとの人と知恵愛知、会田雄次ほか監、石川松太郎ほか編、農山漁村文化協会、1995年)、『朝日日本歴史人物事典』
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