明顕山 祐天寺

年表

安永08年(1779年)

祐天上人

家基、逝去

2月24日、10代将軍家治継子の家基が18歳で逝去しました。家基は文武に秀でていたと伝えられていますが、狩のとき急逝したのです。上野寛永寺に納棺、増上寺にて法事が行われることが決まり、祐天寺に納経・拝礼が仰せ付けられました。寺社奉行より仰せ付けがあったと増上寺役所よりお達しがあったので、3月17日に御掛かり奉行の土岐美濃守と牧野豊前守へお礼に参上しました。それから増上寺役者了炙和尚へお礼に行き、御施物頂だいも内礼格外2か寺と同様になるよう、役者中より願ってもらう話について相談しました。
3月22日、土岐美濃守へ祐天寺の拝礼の席と施物の格を改める願書を、増上寺役者中より差し出しました。

4月10日、増上寺役者より呼出しがあり、明11日の納経・拝礼は六つ半時(午前7時)2番鐘を撞きしだい、詰めるようになど詳しいお達しがありました。
11日、祐全は孝恭院殿(家基)の納経・拝礼を勤めました。拝礼の席順は、別当が1列に並び、次に祐天寺、本誓寺、大養寺、役者4人、寺家伴頭の順であり、全く年頭の拝礼のとおりです。勤め終わって宿坊へ引き取り、それより掛かりの寺社奉行へ御礼に参上しました。
4月15日、増上寺より呼状が来て、参上すると、納経の施物の件は希望のとおりになったのですぐに掛かりの土岐美濃守へ御礼に参上するようにということでした。17日、祐全は土岐美濃守へお礼に参上しました。そのあと増上寺役者了炙の寮へ行き、お礼を申し述べました。了炙の話では近頃いくつかの寺院の寺格が上がったのに伴って施物の格を上げて欲しいと願いながら許可がなかった、それなのにこのたび内礼寺院格に施物を頂だいしたのは、その格は今後ずっと続くことであり、大変めでたいということでした。

19日暁七つ時(午前4時)に出駕し、増上寺へ参りました。竹の間で、17日に帳場に出しておいた銭30貫文の受け取り証文に裏書をし裏印を押して渡されました。その証文を持参して四つ時(午前10時)塔頭花岳院へ行き、役者中列席の中、お施物銭30貫文、代金7両2歩を受け取りました。それから方丈に参上してお礼を申し述べました。土岐美濃守、牧野豊前守には再度お礼に回りました。

参考文献
『寺録撮要』3、『徳川幕府家譜』(『徳川諸家系譜』1

祐穏父、逝去

7月6日、十万人講発起人で、祐穏(文化元年「祐天寺」参照)の父でもある伊勢屋長三郎が逝去しました。法号は専誉自信大徳です。

参考文献
『本堂過去霊名簿』

下馬札、修復

10月、裏門下馬札が朽ち損じて倒れ、同月18日、表門下馬札とともに建て替えとなりました。表門は札板もともに建て替え、裏門は柱だけ建て替えとなりました。

参考文献
『寺録撮要』5

寺院

題経寺板本尊、発見

「柴又帝釈天」として親しまれている日蓮宗の経栄山題経寺で、長いこと行方がわからなかった板本尊が、本堂修理の際に棟木の上から発見されました。この板本尊は宗祖日蓮が彫ったもので、この寺に寺宝として伝えられてきたものです。表面には中央に「南無妙法蓮華経」の題目と『法華経』の経文の一部が書かれ、裏面に忿怒の相の帝釈天の像があります。

もともと帝釈天は庚申信仰と縁が深く、また、この板本尊が発見されたのが庚申の日であったことから、題経寺では庚申の日を縁日とするようになりました。江戸時代後期には庚申信仰が盛んになっていたため、縁日にはたくさんの参詣者が題経寺を訪れ、現代も続いています。

参考文献
『武江年表』1、『江戸東京はやり信仰事典』(新倉善之、北辰堂、1998年)、『葛飾区史』下巻(東京都葛飾区役所編集・発行、1970年)

風俗

桜島、噴火

9月29日の夜から続いていた地震が、噴火の予兆だとわかったのは10月1日のことでした。この日は朝から島中の井戸水が沸き上がり、桜島の南岳から白煙が上がり始めたのが午前11時頃、桜島の南部にある燃ノ頭と呼ばれる辺りから黒煙が上がり大噴火となったのは午後2時頃のことでした。午後4時頃には北東部の瓶掛と呼ばれる辺りからも噴煙が上がり、大きな爆発音とともに噴火の勢いは増すばかりでした。

薩摩藩は数百隻の船を出し、2、000人を超える避難民の救護にあたりましたが、逃げ惑う島民たちの中には船に乗るのに先を争い、海に落ちて命を落とす者もいたそうです。死者は150人余り、負傷者は数え切れません。全・半壊した家屋は500戸にも及び、牛馬などの家畜も2、000頭が死にました。また、桜島の東側から南側にかけては火山灰が2~3メートルも降り積もり、2万石余りの耕地が損害を受け、その約半分が永久的に耕作不能となりました。

10月中旬にはいったん落ち着きを見せましたが、翌9年(1780)8月11日、さらに天明元年(1781)3月18日、続いて4月8日にも噴火を起こし大きな被害を与えました。
今回の噴火で桜島北東部の沖には「燃島」または「安永島」と呼ばれる新島が誕生しました。新島の周りにあるほかの小さな島々と合わせて安永諸島と呼ばれ、桜島山腹の火口から流出した溶岩が大量に海底に流れ落ちてできた島々だと言われています。

当時、火山の噴火は桜島にとどまらず日本各地で起きていました。噴火による火山灰や噴火ガスによって異常気象となり、相次ぐ不作や飢饉の原因となりました。

参考文献
『鹿児島県史』2(鹿児島県編集・発行、1940年)、『江戸時代 人づくり風土記』46(ふるさとの人と知恵鹿児島、会田雄次ほか監、石川松太郎ほか編、農山漁村文化協会、1999年)

芸能

人形浄瑠璃『伊達競阿国戯場』上演

昨年上演された歌舞伎『伊達競阿国戯場』(安永7年「出版・芸能」参照)が人形浄瑠璃の作品となって、3月21日より江戸肥前座で上演されました。達田弁二、吉田鬼眼、烏亭焉馬(文化7年「人物」参照)の作です。


富十郎の「道成寺」上演

初代中村富十郎が舞踊『京鹿子娘道成寺』を上演しました。宝暦3年(1753)に自ら初演(宝暦3年「出版・芸能」参照)して以来、実に26年もの間踊ってきたことになります。『京鹿子娘道成寺』は道成寺物の舞踊の代表作として、現在でも上演され続けています。

参考文献
『義太夫年表』、『伊達競阿国戯場』(『続帝国文庫』江戸作者浄瑠璃集、博文館、1898年)、『歌舞伎年表』

人物

円山応挙  享保18年(1733)~寛政7年(1795)

円山応挙は丹波国穴太村(京都府亀岡市郊外)の丸山藤左衛門の次男として生まれました。幼い頃から絵を描くことを好み、農業には興味を示さなかったことから、いつしか父母も諦めて、応挙が15歳前後になると京へ奉公に出しました。

応挙の奉公先は呉服屋でしたが、ふとした縁で「びいどろ道具」などを扱う玩具屋の尾張屋勘兵衛に絵の才能を見出され、勘兵衛の勧めで狩野派の石田幽汀の門に入り画家への道を歩み始めました。のちに写生派の祖となる応挙の絵の基礎は、粉本(下絵)に従って描かれる伝統的な狩野派の画法によりました。

宝暦9年(1759)の27歳頃、応挙は勘兵衛の店で売られていた「のぞき眼鏡」に付属する眼鏡絵を描きました。眼鏡絵とは、のぞき眼鏡の中に仕込まれる絵のことで、レンズを通して中の絵をのぞくと、遠近法で描かれた風景画が浮き上がって見えるものです。当時、中国製の眼鏡絵が輸入されて人気を博しており、応挙はその模写を通して西洋の遠近法を学びました。この遠近法を生かして明和2年(1765)には「淀川両岸図巻」を描き、この頃から写実的な「雪松図」なども描き始めたようですが、これは古画の模写を第一としていた当時の画壇において画期的な絵となりました。

やがて応挙は大津園城寺円満院門跡の祐常の庇護を受け、円満院の古画の模写に励むかたわら、祐常の求めに応じて多くの写生帖も制作しました。また明和8年(1771)に描いた「牡丹孔雀図」は沈南蘋の作品から影響を受けたと思われます。南蘋は当時の画家たちに写実の持つ重厚さを示した人物です。応挙が南蘋から直接学んだかどうか明らかではありませんが、応挙の描く鶴や孔雀の絵に南蘋の影響を見ることができます。

安永年間(1772~1780)、応挙は円熟期を迎えます。眼鏡絵で体得した遠近法と写実表現とを融合させて、応挙は新しい写生派の画風を築き上げました。応挙の写生は単に見たものを見たとおりに描くというのではなく、装飾性も兼ね備えている点に特徴があります。寛政元年(1789)頃に描かれ、現在国宝となっている「雪松図屏風」は写生を基本としつつも、同時に強い装飾性が表されている代表作と言えます。

寛政5年(1793)頃から健康を害し眼病も患いますが、京都の豪商三井八郎兵衛からの資金援助を受け、現在国の重要文化財に指定されている金刀比羅宮の障壁画をはじめとする大作を完成させました。

寛政7年(1795)7月17日、63歳で死去。京都悟真寺に葬られました。

参考文献
『円山応挙展』(没後二〇〇年記念、兵庫県立歴史博物館編、「円山応挙展」全国実行委員会発行、1994年)、『応挙』(水墨画の巨匠10、佐々木丞平、講談社、1995年)、『朝日日本歴史人物事典』
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