明顕山 祐天寺

年表

安永7年(1778年)

祐天寺

岩姫、逝去

土佐山内(松平)家(宝暦8年「説明」参照)出身で、9代藩主豊雍の息女である岩姫が生年2歳で逝去しました。随岸院殿という法名でした。祐天寺に葬られました。

参考文献
『本堂過去霊名簿』「長州藩・瑞泰夫人功徳碑」(中島正俉、『THE祐天寺』18号、1991年7月)

家基、御成

広尾筋へ将軍家治子息の家基の御成があるということで、9月17日に御鳥見金田忠三郎より手紙で、西丸御場掛御小納戸頭取衆が19日に見分に来て、その節は祐天寺にも立ち寄ると知らせてきました。

24日、明日25日に家基が祐天寺境内を通る旨を、御鳥見金田氏より知らせてきました。

25日は四つ半時(午前11時)頃より雨となりました。瀧泉寺が御膳所となっていたためそこへまず入御され、九つ時(正午)過ぎに不動裏門より祐天寺裏門へ通られました。昨年と同じように(安永6年「祐天寺」参照)祐全は右裏門外へ出て平伏しました。

参考文献
『寺録撮要』4

瑞耀院、逝去

11月26日、黒田家(宝暦3・4・5年「祐天寺」参照)の瑞耀院(瑞光院とも)が77歳で逝去しました。
法号は瑞耀院殿歓誉祐栄大姉です。広尾祥雲寺に葬られました。

瑞耀院は豊姫と呼ばれ、上杉綱憲と側室いその子として生まれた人物です。享保3年(1718)秋月藩主黒田長治(長貞)に入輿しました。瑞耀院は瑞懆院長女の浄真院が逝去した年である元文2年(1737)、祐天寺に『浄土三部経』を書写し奉納しました。これに祐海が奥書きしたものが大森薬師堂に納めてありました。

大森薬師堂の住職香残(開山随従。宝永6年「伝説」・明和7年「祐天寺」参照)は米沢出身で、上杉家の祐天寺への信仰を取り持った人物と見られます。

参考文献
『本堂過去霊名簿』、『祐天寺所蔵文化財追加調査報告』(金山正好、1980)、『上杉家御年譜』7(米沢温故会発行、1978年)、「秋城御年譜」(『甘木市史資料』近世編第1集、甘木市史編纂委員会、甘木市、1983年)

勤行鐘、新鋳

延享元年(1744)に鋳造された勤行鐘(延享元年「祐天寺」参照)は摩耗し、音が悪くなりました。そこで土佐山内(松平)家の友姫が浄財を喜捨し、11月に新しく鐘を造りました。鐘銘は耆山(寛政2年「人物」参照)の作です。瑞泰院殿、養源院殿と並んで本年逝去した随岸院殿の法号も供養のために鐘に刻されました。

参考文献
『寺録撮要』2

寺院

回向院で善光寺如来、開帳

6月1日から本所回向院で始まった善光寺如来(元禄14年「寺院」参照)の開帳は、大変な人出で賑わいました。両国橋は連日、回向院へ参詣に向かう人々でごった返し、約60日間の開帳中、10万人以上の参詣者があったと言います。また、期間中には、まだ夜も明けないうちから竿の先に提灯を灯して大声で念仏を唱えながら参詣に来る人々がいたり、多くの見世物が出たりして、開帳をさらに賑やかなものにしたようです。

参考文献
『天照山光明寺』(大本山光明寺編集・発行、1986年)、『大本山増上寺史 本文編』(大本山増上寺編集・発行、1999年)、『縁山志』10(『浄土宗全書』19)、『江戸の開帳』(江戸選書3、比留間尚、吉川弘文館、1980年)、『武江年表』1

出版

『筆累絹川堤』刊行

柳川桂子作、鳥居清経画の『筆累絹川堤』が刊行されました。信田小太郎の世界に累、巌流島の話をない交ぜた筋です。累は生まれつき不器量で、しかも心が悪く、母が累の未来のためにとその小袖を朝日の如来に寄進したところ、怒って取り返すような人物に描かれています。信田のお家の重宝「ゆずりはのみかがみ」に姿を写したところ、累は醜く写りました。美しいやつはしが与右衛門(実は信田の奴竹平)を訪ねてきたことに嫉妬した累は鏡を川へ投げ入れ、腹を立てた与右衛門に殺されました。その後いろいろな姿となった累の亡魂が与右衛門を悩まし、また与右衛門の1人娘菊に取り憑きますが、祐天和尚の加持によって累は成仏得脱するのでした。

参考文献
「『筆累絹川堤』についてー累物草双紙の二、三に関してー」(高橋則子、『叢』8号、東京学芸大学国語教育学科、1985年

芸能

『伊達競阿国戯場』初演

閏7月、歌舞伎『伊達競阿国戯場』(俗に「身売りの累」)が江戸中村座で初演されました。伊達騒動(寛文元・11年「事件・風俗」参照)の筋に累・与右衛門の筋を絡ませたもので、初世桜田治助、初世笠縫専助らの作です。

足利家お抱えの力士絹川谷蔵は、主君頼兼を悪計から守るため、頼兼の愛人高尾太夫を殺害します。ところが高尾の妹累は絹川谷蔵を恋い慕い、結婚することになります。縁組みを許さない高尾の怨霊のために累は醜くなり、足も悪くなります。累に鏡を見ることを禁じ、心を傷付けないようにかばっていく谷蔵(与右衛門と名を変える)ですが、主君の御台薗生前をかくまうことから累に誤解されます。そして累が嫉妬のあまり足利家の重宝稲妻の名鏡を川に投げ込んだことから、谷蔵はついに累を殺すのでした。

参考文献
『伊達競阿国戯場』(『日本戯曲全集』16、春陽堂、1929年)
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