3月、常念仏堂が建て替えられました。その当時の記録などは乏しいのですが、天保3年(1832)に古老塩田可蔵に祐麟が聞いて書きとどめたものがあります。それによると、明和年度に造立の堂宇は武家屋敷の長屋造りでしたが、安永年間(1772~1780)に建てられたものは仏殿の造りで、天保3年の時点でも同じ建物だったそうです。明和年間(1764~1771)の建て替えのために毛利家からは200両、有馬家からもいくらかの寄進があったそうですが、総入用は700両余りかかったそうです。
3月4日に常念仏堂建て替えを牧野越中守へ願い出、3月8日に役僧祐忍を差し出したところ許可が出ました。
4月4日、祐全は田沼主殿頭家老各務久左衛門のところへ行き、上覧がかなわないと田沼主殿頭が思し召しだったら願いを取り下げるので、お指図をくださるようにと頼みました。各務は、先年の書付をもう1度書いて遣わすようにと言われたので、7日に書付を各務のもとに届けました。
4月20日、寺社奉行月番太田備後守より、ただ今参上するよう呼状が来て、祐全はすぐに出駕しました。役人より「本日、老中松平周防守の仰せ渡しによると、祐天寺で法然上人行状絵図などの宝物を上覧に入れたいということだったが、このたび上覧のお沙汰があったので書類を出すように」と備後守が申されたということでした。有徳院(吉宗)、惇信院(家重)が上覧されたときの事情や行状記のほかに上覧された品を、明日中に書付にして出すようにと申し渡され、 21日に祐全は書付を出しました。
22日、祐全は本丸高岳へ備後守のお沙汰をお知らせしました。
同日、太田備後守配下の役人より、什物を持参するよう申し渡されたので、長持に入れて役僧祐忍を付き添わせて祐全が持参しました。役人恒岡宇左衛門が出会い、1つずつ照らし合わせて差し出しました。夜八つ時(午前2時)に備後守役宅を引き取り、23日の明け方六つ半時(午前7時)に帰寺しました。
23日、行状絵図とともにお目に掛ける什物を選んでいたところ、行状記を上覧するという仰せ出があり、行状絵図のみの上覧と決まりました。翌日持参せよとのことです。
24日、行状絵図をすべて改めて箪笥に納めました。小書院床の間に法然上人像を安置し、その前に行状絵図を置いて念仏祈願をし、九つ時(正午)出駕しました。太田備後守役宅では役人川副作兵衛が応対し、評席へ行状絵図を差し出しました。役人川副作兵衛、恒岡宇左衛門が立ち会ってすべて改め、鍵とともに引き渡しました。別席に控えていたところ、備後守が出席されて祐全は呼び出され、目録をご覧のうえ、目録どおり確かに受け取ったと仰せ渡しがありました。
25日、本丸老女高岳、花園、飛鳥井ほかに手紙で行状絵図上覧を仰せ出されたことをありがたく思っている旨をお知らせしました。
同年5月16日、太田備後守役人より手紙が来ました。享保12年(1727)に有徳院殿が行状絵図を上覧された(享保12年「祐天寺」参照)あと、拝領物はあったかと尋ねるものでした。翌17日、昨日お尋ねの儀を書付にし、役僧祐忍が太田備後守へ持参しました。
行状絵図の上覧が滞りなく済んだということで、18日九つ時(正午)、祐全は役僧祐忍のほか持ち役を連れ、太田備後守へ参上しました。役人川副作兵衛が応対し、土岐美濃守が内々に行状絵図を拝見したいということで、明19日夕方役僧に引き渡すので、承知して欲しいということでした。承知の旨を返答しました。そののち備後守直々先日のとおり目録を読まれ、上覧が済んだので渡す旨を申し渡されました。
土岐美濃守の拝見は予定より長引き、持ち役を連れながら何度も伺候することになりましたが、ついに持ち役を連れず伺いにのみ参上したところ、本日渡すと言われました。本日はお伺いのみのつもりだったので明日伺いますと言っても、いや、ぜひ今日渡すということで、備後守が持ち役をお出しくださり、警護の同心2人も付けてくださり、無事に帰寺しました。
10月5日の夕方、9日に10代将軍家治が広尾筋に御成になると目黒掛かり御鳥見金田忠三郎より知らされました。
9日、家治が広尾原通りへ御成になり、四つ半時(午前11時)過ぎ、御膳所目黒瀧泉寺へ入御されました。九つ時(正午)過ぎ、懸不動裏門より還御され、大通り地蔵前より祐天寺裏門へ通られ、祐全は裏門外の右のほうで拝迎平伏して御目見えしました。家治は阿弥陀堂の前で立ち止まり、しばらく本堂と釣鐘堂のほうを御覧になっておられ、表門から帰られました。
10日、祐全は御用番老中松平周防守、寺社奉行月番土岐美濃守、寺社奉行太田備後守、牧野越中守、戸田因幡守へお礼回りに回りました。