明顕山 祐天寺

年表

安永04年(1775年)

祐天上人

増長・持国の2天を安置

4月8日、仁王門に伝運慶作の増長天、持国天の2天を安置しました。両体とも丈は2尺7寸5分(約92センチメートル)です。

参考文献
『寺録撮要』2

祐麟養祖父、逝去

11月24日、祐麟(祐天寺10世)養祖父の奥田小三郎が逝去しました。法号は到誉還堂寶刹居士です。

参考文献
『本堂過去霊名簿』

祐東実父、逝去

6月24日、祐東(祐天寺9世)の実父で、奥州磐城仁井田門学院の長が逝去しました。法号は不退院聖誉祐泉居士です。

参考文献
『本堂過去霊名簿』

千部修行の許可

8月14日、寺社奉行月番松平伊賀守へ以前と同じように(享保9年、20年、延享2年、宝暦5年、明和2年「祐天寺」参照)申年より10年間における千部修行の願書を提出しました。9月18日、太田備後守へ引き渡され、寄合席で許可の仰せ渡しとなりました。

参考文献
『寺録撮要』3

密厳、遷化

密厳が遷化しました。増上寺の幹事を勤めた人物です。祐天寺過去帳に載る法号は、玄蓮社臻誉上人荘阿愚徳密厳大和尚です。

参考文献
『本堂過去霊名簿』、『檀林縁山志』10(『浄土宗全書』19)

『法然上人行状絵図』上覧―その1

『法然上人行状絵図』の上覧(将軍が閲覧されること。享保12年「祐天寺」参照)は、祐全の年来の心願でした。日光御社参の前に上覧になった先例があるので、上覧を仰せ出されるよう、人を介して本丸高岳へ書付を出して願うと、田沼意次(安永元年「人物」参照)と内談してくれました。意次からは、日光社参の折にということで願うと、日光社参が実現されないと上覧もないことになるので良くないだろうということで、時節を待つようにと言われました。

祐全は諦めきれず、高岳に相談したところ、寺社奉行に願うよう言われました。奥向きより話をしてもらい、10月17日に増上寺添簡を添えて祐全が牧野越中守へ直参し、願書を出しました。願書は預かりになりました。
御用御取次稲葉越中守用人に面会し願ったところ、問題はないが、将軍へ大奥または老中から声を掛けてもらう必要があると言われました。しかし、その頃ちょうど将軍が種姫を養女にと仰せ出られたので、ことのほかの取り込みで上覧はかなえられそうもなくなってしまいました。祐全は牧野越中守へ差し出した文書を下げ渡してもらい、増上寺役者へも添簡を返納しました(安永6年「祐天寺」参照)。

参考文献
『寺録撮要』3

養源院、逝去

閏12月、久留米藩(筑後国。福岡県南部)の養源院が逝去しました。養源院は毛利家(文政8年「説明」参照)の姫で瑞泰院(明和6年「祐天寺」参照)の娘であり、有馬家(「説明」参照)に嫁いだのでした。祐天寺に分髪供養塔(祐全撰文)を建造し、100両の奉納がありました。祐天寺過去帳には有馬中務大輔頼貴室勢代姫として載せています。法号は養源院殿貞室知栄大姉です。墓所は広尾祥雲寺にあります。

参考文献
『本堂過去霊名簿』

説明

有馬家と祐天寺

この年、有馬家養源院が逝去しました(「祐天寺」参照)。有馬家の人物として祐天寺過去帳にはほかに、頼貴側室の於波、於波実母、頼貴3男の頼瑞(法号は寛明院殿中太夫前紀州長吏徳巌道祐大居士。施主が於波であるので、於波の子どもと思われます)、頼貴女の品姫(丹羽加賀守長祥室)ほかの法号が納められています。養源院から信仰が伝えられたと考えられます。
そのほか奥向きの女中の法号もいくつか納められており、「養源院殿附村尾」、「老女松岡」などが見えます。

このほか、有馬家の宿坊が増上寺池徳院(祐天上人が預けられた坊。慶安元年「祐天上人」、承応元年「伝説」参照)であったことも、有馬家との縁と言えるでしょう。

参考文献
『本堂過去霊名簿』、『寛政重修諸家譜』、『新撰東京名所図会』7編(『風俗画報』臨時増刊、芝公園の部・中、東陽堂、1897年7月)

寺院

崇源院殿150回忌法要

9月12日、増上寺において崇源院殿(2代将軍徳川秀忠正室)の150回忌法要が開白されました。導師は増上寺住職である霊応(安永2年「寺院」参照)が勤め、15日に結願しました。この際に幕府は、霊応たちへ銀を布施しました。

参考文献
『徳川実紀』10、『縁山志』10(『浄土宗全書』19)

風俗

赤水の日本地図、完成

水戸藩士の長久保赤水(「人物」参照)が日本で初めて、緯度を示す緯線と方角を示す方角線の入った日本地図「日本輿地路程全図」を完成させました。約20年もの歳月をかけて作られたこの地図は、1寸(約3センチメートル)を10里(40キロメートル)とする縮尺が付けられ、地名や河川の名前なども記載され、日本列島の輪郭がほぼ正確に描かれていました。

この地図は4年後の安永8年(1779)に柴野栗山の序文を付けて「改正日本輿地路程全図」として刊行されました。のちに伊能忠敬(文政元年「人物」参照)によって実測地図「大日本沿海輿地全図」(文政4年「事件・風俗」参照)が作られましたが、こちらは一般には公開されなかったため、赤水の地図が江戸時代における日本地図の主流となり、幕末まで使われました。


鷹山の藩政改革

米沢藩上杉家は上杉謙信を藩祖とする名家ではありましたが、収入の約3倍以上もの借入金がありました。これは8代藩主の上杉重定が幕府に領地を返上することまで考えたほどの金額で、藩は完全に経営破綻の状態だったのです。

このような中、17歳で9代藩主となった上杉鷹山(文政5年「人物」参照)は、藩主となるやいなや大倹約令を発しました。藩政改革の始まりです。鷹山自身も食事は1汁1菜と決め、生涯にわたり絹などの高価な着物を着ることはありませんでした。質素倹約を徹底するために藩主が率先して倹約に努め、模範を示すことで、藩士たちに危機感を持たせたのです。
しかし、重臣たちの中には鷹山の改革に冷淡な者たちもおり、安永2年(1773)には「七家騒動」と呼ばれるクーデターが起きました。重臣7人が質素倹約への反対、鷹山が重用している者への批判とその改革の失敗などを45か条にわたって訴状にしたため、改革以前の政治に戻らなければ幕府に訴えると鷹山に詰め寄ったのです。このクーデターは結局、中・下級藩士たちが鷹山の改革を支持したために失敗に終わり、改革に反対する者は一掃されました。のちにこの事件は米沢藩の藩政改革の確立という大きな意味を持つことになります。

その後も鷹山が改革の手を緩めることはなく、漆や桑の栽培、織物などの産業開発にも積極的に乗り出していきました。35歳の若さで藩主を譲ってからも鷹山は米沢にとどまり、半世紀にも及ぶ藩政改革を断行しました。

参考文献
『長久保赤水』(茨城県郷土文化研究会編集・発行、1970年)、『地政学者 長久保赤水伝』(長久保片雲、暁印書館、1978年)、『堂々日本史』13(NHK取材班編、KTC中央出版、1998年)、『上杉鷹山』(人物叢書新装版、横山昭男、吉川弘文館、1987年)、『国史大辞典』

出版

『金々先生栄花夢』

2年前に刊行された『当世風俗通』(安永2年「出版・芸能」参照)の挿絵を描いたことで、一躍脚光を浴びた恋川春町(寛政元年「人物」参照)の新作が刊行されました。
内容は、金村屋金兵衛が目黒不動の門前茶屋で粟餅を待つわずかな間に、江戸で思いがけずに金持ちの養子となって家督を継いだが遊興にうつつを抜かして勘当され途方に暮れるという夢を見て、栄華のはかなさを悟って田舎に帰るというものです。

洒落本のような漢文の序を付け、当時の若者風俗などを生き生きと描くなど、それまで子ども向けの絵入り本であった青本・黒本の性格を完全に脱した出来映えでした。本書の登場により、大人向けの絵入り本として黄表紙という新しいジャンルが誕生します。

参考文献
『黄表紙 川柳 狂歌』(新編日本古典文学全集79、棚橋正博ほか編、小学館、1999年)、『新編稀書複製會叢書』(中村幸彦ほか編、臨川書店、1989年)、『日本古典文学大辞典』、『歌舞伎年表』

芸能

『嶼小袖累譜』上演

3月27日より大坂小川座で、累物の歌舞伎『嶼小袖累譜』が上演されました。明和元年(1764)に初演された『長崎丸山細見図』(明和元年「出版・芸能」参照)の再演です。

参考文献
『黄表紙 川柳 狂歌』(新編日本古典文学全集79、棚橋正博ほか編、小学館、1999年)、『新編稀書複製會叢書』(中村幸彦ほか編、臨川書店、1989年)、『日本古典文学大辞典』、『歌舞伎年表』

人物

長久保赤水  享保2年(1717)~享和元年(1801)

長久保赤水は享保2年(1717)に常陸国多賀郡赤浜村(茨城県高萩市)に生まれました。長久保家は代々赤浜村の庄屋を務め、農業のかたわら地引網漁も行っていたことから、経済的には豊かな環境で育ちました。しかし、父が次男であったことから分家となり、赤水が8歳のときに人里離れた北原山林に移住した頃から赤水の不幸は続き、9歳の秋には母を失い、11歳で父とも死別して、継母に育てられるようになりました。

幼少より病弱気味の赤水ではありましたが、農業の合間に隣村の医師鈴木玄淳の塾に通って唐詩選などの漢学を学び、しだいに頭角を現すようになりました。22歳のときには師玄淳の紹介により水戸藩随一の学者であった名越南渓に入門し、いよいよ本格的に学問に打ち込んでいきます。

農民の身でありながら学問にのめり込んでいく赤水を、快く思わない親族もいましたが、継母は赤水に嫁をとり、自分と嫁が農作業をして赤水には学問を続けさせました。そのかいあって赤水にも好機が訪れます。暴風雨のために隣村の船が安南(ベトナム)まで漂流してしまい、その漂流者を引き受けるため赤水も長崎まで随行することになったのです。長崎から戻ると赤水は『長崎行役日記』や『安南国漂流記』などを著し、その功績が認められて水戸藩郷士に取り立てられました。

また、赤水を一躍有名にしたは「日本輿地路程全図」(「事件・風俗」参照)ですが、その編集の構想は35歳頃から考えていたようです。この地図は実測したものではありませんでしたが、江戸時代のものとしては正確に作図されていたので、幕末の動乱期には長州藩の吉田松陰をはじめとする志士たちにも使われることになります。

地図を完成させた2年後の安永6年(1777)には水戸藩主の徳川治保の侍講に抜擢され、江戸小石川の藩邸へ出仕します。この間に世界地図「改正地球万国全図」や中国地図、農業書など数多くの著作を残しました。また寛政3年(1791)に75歳で職を離れたあとも江戸藩邸内にとどまり、『大日本史』(明暦3年「出版」参照)の編纂にもかかわりました。

寛政8年(1796)80歳で水戸彰考館に移り、翌年の夏には赤浜村に帰りました。81歳のときにしたためたという遺言状には、飾らず偉ぶらず、ただ純粋に生き抜いた赤水の姿がありました。享和元年(1801)7月23日、故郷赤浜村で静かに85歳の生涯を閉じました。

参考文献
『長久保赤水』(茨城県郷土文化研究会編集・発行、1970年)、『地政学者長久保赤水伝』(長久保片雲、暁印書館、1978年)、『国史大辞典』
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