明顕山 祐天寺

年表

安永02年(1773年)

祐天上人

檀通上人像、再興

この年の8月2日は檀通上人(祐天上人の師匠)の100回忌にあたるため、3月に祐全が施主となって鎌倉光明寺蔵の檀通上人像と位牌の再興を行いました。

参考文献
『鎌倉光明寺檀通上人御腹内書付』(写本、祐天寺蔵)

祐全名号付き墓石、建立

この頃、川越西雲寺(埼玉県川越市)に、祐全の名号付きの墓石が建立されました。墓石には法号が2霊記してありますが、その1人の没年がこの年です。

参考文献
祐全名号付き墓石刻文(川越西雲寺)

家康尊像を祐全が記録

3月18日、祐天寺に所蔵される家康の木像2体について、祐全が記録しました。1体は増上寺観智より随波、檀通上人を経て祐天上人へ伝えられたもの、またもう1体は将軍綱吉が安国殿にある家康像を写されたものを竹姫へ差し上げられ、それを竹姫が祐天寺へ納められたものです。

参考文献
『寺録撮要』2

下馬札、紛失

3月15日夜、表門下馬札が紛失しました。境内そのほかを吟味したところ、増上寺御霊屋料中目黒村の百姓伝左衛門という者の耕す畑の中に、埋まっている状態で見つかりました。そのままにしておいて増上寺に訴え出て、仮に取り出すようにという増上寺役者の指示によって、祐天寺役僧と現地の者が立ち会いのうえで土中より掘り出しました。傷などはありませんでした。付近に心当たりのある者も目撃者もいませんでした。門の番人は近い距離の出来事なのに気付かなかったのかと土岐美濃守役人に叱られ、祐全も以後気を付けるように申し渡されました。

参考文献
『鳶曹雑識』(1)(内閣文庫所蔵史籍叢刊7、史籍研究会、汲古書院、1981年)

松嶋、逝去

奥年寄の松嶋が逝去しました。下馬札拝領に関してお世話に預かった人物です(明和3年「祐天寺」参照)。

参考文献
『本堂過去霊名簿』

寺院

霊応、増上寺住職に

3月、智瑛の辞職により、伝通院36世の霊応が増上寺49世住職となりました。霊応の在職中には、それまで一向宗と呼ばれていた東西本願寺の門徒たちが、浄土真宗と自称することを申し出た宗名論争(安永3年「寺院」参照)が起こっています。また、9代将軍家重の13回忌法要や月光院殿(享保5年「人物」参照)の33回忌法要などの導師も勤め、安永6年(1777)に辞職後は念仏三昧の日々を送ったということです。

参考文献
『縁山志』10(『浄土宗全書』19)、『浄土宗大辞典』

事件

大原騒動

飛騨国(岐阜県)において、大原騒動ほど大規模で刑が過酷を極めた百姓一揆はないと言われています。幕府の領地(天領)である大野、吉城、益田の3郡で繰り広げられた農民と代官大原氏との闘いは、明和8年(1771)、安永2年、天明8年(1788)にそれぞれ大騒動として発展し、これらを合わせて大原騒動と呼ばれました。

この年に起こった安永騒動は、幕府が増税をねらって80年振りに検地を行ったことから始まります。この検地は元禄時代以降の新田を対象とするはずでしたが、代官の大原彦四郎は元禄以前の古田の検地も行い、これが農民たちの不信を招いたのです。抗議する農民たちに彦四郎は「嘘も世界の宝」と暴言したと言います。怒った農民たちは大垣藩に越訴しますが取り合ってもらえず、決死の覚悟で江戸の老中へ駕籠訴もしましたが、農民の訴えは届きませんでした。思い余った農民たちは結集し、ついに代官所へ強訴します。彦四郎もこのときには農民たちの訴えを受け入れたかに見えましたが、陰ですぐさま郡上藩へ出兵を要請し、強訴からほぼ1か月後には無抵抗の一揆勢を鉄砲で押さえ込んでしまいました。

この騒動で処罰された人は磔・獄門・死罪・遠島のほか、追放や過料、また牢死なども含めると1万人近くにものぼります。そのうえ年貢は減るどころか2割以上の増税となり、農民の闘いはさらに天明騒動へと続いていくのです。

参考文献
『図説日本の百姓一揆』(歴史教育者協議会編、民衆社、1999年)、『図説・大原騒動』(図説・大原騒動刊行会編、郷土出版社、1992年)、『島津重豪』(人物叢書、芳即正、吉川弘文館、1980年)、『江戸時代人づくり風土記』46(ふるさとの人と知恵鹿児島、大石慎三郎ほか監、石川松太郎ほか編、農山漁村文化協会、1999年)、『国史大辞典』

風俗

薩摩藩で藩校創設

文化や教育に関心の高かった薩摩藩主島津重豪(「人物」参照)により、この年に聖堂(孔子を祀る廟)と武芸稽古場が創設されました。薩摩藩で初めて造られた藩校です。翌年には医学生の養成や薬草の研究を行う医学館が、さらに6年後の安永8年(1779)には天体観測所である明時館が建てられ、天明6年(1786)には、聖堂は造士館、武芸稽古場は演武館と命名されて藩校の規模は拡大していきました。当時の薩摩藩は木曽川などの治水工事(宝暦5年「事件・風俗」参照)により財政が苦しく、藩校の創設に反対する者もいましたが、重豪はこれをはねのけ、鹿児島城の二の丸御門前に建てたのです。

これら藩校に通う学生は8~22歳頃までの藩士の子どもたちが中心でしたが、学びたい者であれば他藩の者でも、さらには商人の子であっても聴講が許され、しかも聴講料は無料というとても開かれた藩校でした。藩校の運営は重豪が寄付した240貫の利息で賄われていたためです。藩校で学んだ優秀な学生が藩の役人に取り立てられたり、学生に対してだけでなく教師への決まり事も定められていた藩校は、常に教育の中心でした。

明治4年(1871)の廃藩置県の際には体制を変えながらも、鹿児島県を代表する教育施設として近代まで存続されました。

参考文献
『図説日本の百姓一揆』(歴史教育者協議会編、民衆社、1999年)、『図説・大原騒動』(図説・大原騒動刊行会編、郷土出版社、1992年)、『島津重豪』(人物叢書、芳即正、吉川弘文館、1980年)、『江戸時代人づくり風土記』46(ふるさとの人と知恵鹿児島、大石慎三郎ほか監、石川松太郎ほか編、農山漁村文化協会、1999年)、『国史大辞典』

出版

『当世風俗通』

この年の7月に刊行された『当世風俗通』は遊里に通う若者の風俗を描いたもので、当時の流行を知るうえで本書の右に出るものはありません。「極上之息子風」「同変化之風」「上之息子風」「中之息子風」などを挿絵とともにわかりやすく紹介しています。また、巻末にはこの頃はやっていた本多髷を「時勢髪八體之図」として載せています。
作者として記されている金錦佐恵流が誰かということについては諸説あり、現在でも議論は続けられていますが、本文を朋誠堂喜三二、挿絵を恋川春町(寛政元年「人物」参照)の作とする説が有力です。

参考文献
『洒落本大成』6(水野稔編、中央公論社、1979年)、『日本古典文学大辞典』、『歌舞伎年表』、「累狂言の趣向の変遷―『伊達競阿国戯場』以前」(東晴美、『文学研究科紀要』別冊第20集、1993年)

芸能

『江戸春名所曽我』初演

3月12日より市村座で、累物の歌舞伎『江戸春名所曽我』を初演しました。曽我、景清、隅田川の世界の話です。作者は金井三笑。初代尾上菊五郎が十郎、工藤、重忠と累の4役を演じました。

参考文献
『洒落本大成』6(水野稔編、中央公論社、1979年)、『日本古典文学大辞典』、『歌舞伎年表』、「累狂言の趣向の変遷―『伊達競阿国戯場』以前」(東晴美、『文学研究科紀要』別冊第20集、1993年)

人物

島津重豪  延享2年(1745)~天保4年(1833)

島津重豪が薩摩藩25代藩主となったのは、弱冠11歳のときでした。父重年は27歳という若さで逝去し、幼い藩主の後見として、重豪の祖父である島津家22代藩主の島津継豊があたりました。重豪は、継豊が宝暦10年(1760)で逝去するまでのおよそ5年間、継豊の正室、つまり祖母の竹姫(享保10年「人物」参照)と江戸藩邸で過ごします。竹姫は綱吉(延宝8年「人物」参照)の養女で、祐天上人へ篤い信仰を寄せた人物でした。重豪は生まれてすぐに母を亡くしており、竹姫は、重豪が両親からは得られなかった愛情を、惜しみなく注いだことでしょう。重豪の将来をいろいろと案じ、徳川御三家である一橋家の姫が重豪へ輿入れするのを後押しし、この姫が早世すると今度はのち添えとして、竹姫の実家である清閑寺家筋の姫を迎えさせたのです。さらに、のちに11代将軍徳川家斉(天明7年「人物」参照)となる一橋豊千代に重豪の娘を嫁がせるよう遺言をしたのも、竹姫でした。

重豪は好奇心旺盛な藩主でした。20歳の頃から大量の書物を購入したり、オランダ商館を訪ねて異国の文化に触れたりしました。また、薬園を作って本草学を研究し、さまざまな書物の編纂をするなど勉強熱心でもありました。特に、「蘭癖」と言われるほど蘭学に夢中になり、オランダ語を習得して歴代のオランダ商館長と手紙のやり取りをすることもあったそうです。

教育熱心な藩主でもあった重豪は、薩摩国では初めての藩校も創設(「事件・風俗」参照)。また、江戸や京坂、長崎などを見聞してきた重豪は、異様に長い刀を持ちすねが見えるほど短い袴をはいた薩摩武士の姿や、道端でけんかや口論する人々はとても外聞が悪いとして、たびたび風俗矯正の令を出しています。しかし重豪は決して人々を規則で縛り付けるだけでなく、花火を上げたり船遊びをすることを許可したり、相撲や芝居を興行させて、活気にあふれ開放的な薩摩国を目指しました。

しかし、祖父の代から続く藩の借金は、木曽三川の治水工事(宝暦5年「事件・風俗」参照)でいっきに膨れ上がり、文化4年(1807)には126万両にまで及んでいました。重豪もさまざまな倹約を試みましたが、江戸藩邸の類焼や桜島の噴火(安永8年「事件・風俗」参照)、将軍岳父としての交際費、そして自分の学問に掛かる出費などで、借金は減るどころかどんどん増えていったのです。

天明7年(1787)、重豪は家督を実子斉宣に譲って隠居の身となりますが、斉宣の行う財政改革が重豪の藩政をことごとく覆すものだったことに激怒。この重豪の怒りは、文化5年(1808)に改革の関係者約150人が処分される「文化朋党事件」(あるいは「『近思録』くずれ」)と呼ばれる大事件に発展し、翌6年(1809)には斉宣を隠居させてしまいました。そして、斉宣の子の斉興を藩主に据え、重豪は後見としてまた藩政にかかわりました。藩の借金は文政10年(1827)頃には500万両という途方もない金額にまで膨らんでいましたが、このとき登用された調所広郷により、他藩に類を見ない藩財政改革の成功を収めるのです。重豪はこの成功を見ることなく、天保4年で逝去しますが、シーボルト(文政7年「人物」参照)にその知識の豊かさを驚嘆されるほどの「蘭癖」ぶりは、ひ孫の島津斉彬に受け継がれ、彼は幕末日本の近代化に大きく貢献することとなるのです。

参考文献
『島津重豪』(人物叢書、芳即正、吉川弘文館、1980年)、「島津重豪」(芳即正、『大名列伝5 学芸篇』、児玉幸多ほか編、人物往来社、1967年)、『国史大辞典』
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