明顕山 祐天寺

年表

安永元年(1772年)

祐天上人

下馬札、修復

正月10日、大風で裏門下馬札が倒れました。増上寺へ届け、先年下馬札建立の折に掛かりを務めていた土岐美濃守の役宅へ参上しました。どこへ修復願書を差し出すべきかを伺い、16日に月番へ差し出すよう、指示を得ました。直ちに願書を月番牧野越中守へ差し出しました。19日に役僧を伺いに差し出したところ、願いは聞き届けられ、いずれ作事方より見分があるだろうということでした。
21日、作事方より役人と大工が見分に来寺しました。22日、牧野越中守へ見分が済んだことを届けました。2月1日、御徒目付らが来寺し、下馬札のお取り替えが行われました。2日、牧野越中守と増上寺へ届けを出しました。

参考文献
『寺録撮要』5

什宝庫、建造

正月27日、什宝庫にする土蔵の地形に取り掛かりました。2月16日、土蔵地祭として堅牢地神供を行いました。土蔵は梁間が2間半(約4.5メートル)、桁行きが6間(約11メートル)です。縄張りの中に机を置いて、神酒1対、お供え1飾り、三ツ具足を飾りました。洒水、陀羅尼、十方恒沙仏文、阿弥陀経1巻、堅牢地神、四誓侯、諸天供、念仏百遍を行いました。
2月23日、土蔵の上棟が行われました。お供え餅3飾りが飾られ、投げ銭は333を2通などです。神酒2対、洗米、昆布3抱を白木三宝に供えました。大工の規式が済み、惣衆が出勤して護念経を読誦して、念仏回願、撒き餅を行いました。正三菜に飯、酒などを祝儀に遣わし、さらに棟梁五郎兵衛に金100疋と酒5升、肝煎半四郎に金100疋、平大工3人へ銭300ずつなどを遣わしました。

参考文献
『寺録撮要』2

家宣側室・蓮浄院、逝去

4月18日、家宣側室である蓮浄院が逝去されました。数々の什宝を寄進くださるなど、祐天寺にも縁の深い方でした。

参考文献
『徳川幕府家譜』(『徳川諸家系譜』1)

寺格

11月14日、祐全は寺社奉行土岐美濃守へ、由緒書と増上寺役者の添簡を添えて、寺格願書を直参し、役人加藤半左衛門に差し出しました。祐天寺は文昭院ほかの位牌所になっており、法事ごとに徳川家の準菩提所として納経拝礼を受ける寺院であること、また下馬札も受けていることなどから、寺格の繰り上げを願ったものです。
11月18日、祐全は土岐美濃守内寄合に出席しました。四つ時(午前10時)頃に召し出され、願書が読み上げられ、追って及ぶべしと告げられました。 26日と12月5日に役僧をもって伺いに差し出し、12日には祐全が明春は天英院殿33回忌になることを記した書付を直参して差し出しました。役人加藤半左衛門は、もはや願の趣は当月御用番松平周防守まで伺いにいっているので、そのお沙汰しだいであると言いました。

12月17日、本日役僧を差し出すように呼状が来て、香観を差し出すと、明18日五つ半時(午前9時)、松平伊賀守内寄合へ出るようにと指示がありました。18日、松平伊賀守宅へ参ると、九つ時(正午)、土屋能登守、牧野越中守、土岐美濃守、松平伊賀守がご列席のところへ召し出されました。正月6日、年頭のお礼に白書院に参るときには、同間の閾の内に進んで良いという許可を受けました。祐全は即日、両丸御老中、若年寄、寺社奉行、御側衆などに残らずお礼回りをしました。増上寺へも届け、役者天随和尚に面会し、お礼登城の件について内談し、夜四つ時(午前2時)帰寺しました。文昭院殿、天英院殿、月光院殿、開山祐天上人、起立祐海の前に報告・お礼申し上げ、大書院で皆に公表し、小書院で役僧に詳しく出来事を伝えました。

寺格の披露目を仰せ付けられたので、大僧正より使僧天随和尚をもって、御掛かり寺社奉行の土岐美濃守へ、白銀5枚、菓子1折などのごあいさつがありました。12月20日、土岐美濃守へ、寺格の上がったお礼に、登城お礼申し上げたいという願書を差し出しました。その折、役人加藤半左衛門より、乗輿の儀は重大なことなので、早く願書を出すようにと言われました。祐全はありがたく存じて引き取り、増上寺へ行って林臥に相談し、即日、年頭の白書院登城の節の乗輿の願いを寺社奉行所へ出しました。
同23日、土岐美濃守へ直参すると、別に登城お礼の儀はそれに及ばないと、加藤半左衛門を通してお達しがありました。乗輿の儀については追って沙汰があるとのことでした。
同日、増上寺に、寺格が上がったので開山忌等の出仕の容赦を願う書付を提出しました。翌24日、増上寺へ参り、寺格のお礼を申し述べ、銀2枚の表お礼、金200疋ずつを4役者へ、銀1枚に篁綾2巻を内礼などに差し出しました。

26日、土岐美濃守より呼状が来て直参すると、評席へ召し出され、下乗まで乗輿を許す旨を直達されました。祐全は直ちに増上寺にこれを届けました。
28日、呼状により増上寺へ参上すると、23日に願った件につき定書を下されました。これら寺格の件に関しては、内密には田安宝蓮院が葵紋の威光を添えられ、右御附き佐保山、神崎、梅沢が心配してくださり、本丸年寄松しま、高岳へ仰せ入れ、同人かたより表役人へ願書を出してくださったのです。

参考文献
『寺録撮要』3

竹姫、逝去

11月26日(表向きは12月5日)、竹姫(享保8年「人物」参照)が逝去されました。祐天寺には阿弥陀堂、阿弥陀仏像、祐天上人宮殿をはじめ多くの什宝を寄進された方です。祐天寺に位牌が納められました。法号は浄岸院殿信誉清仁祐光大禅定尼です。竹姫は鹿児島県福昌寺に葬られました。

参考文献
位牌文字、『徳川幕府家譜』乾

光源寺祐天名号付き石塔、建立

駒込光源寺に祐天名号付き石塔が建立されました。正面に青面金剛童子と三猿、右側面に「庚申待 百万遍講中 明和九年(安永元年)」の字、左側面に「天長地久 御願円満 一天四海 天下泰平」の祈願文、背面に大きく祐天名号が彫ってあります。庚申待の夜に百萬遍念仏を行ったことがわかります。

参考文献
庚申塔刻文(光源寺)、駒込光源寺調査報告書(祐天寺内報告書、1995年)

宝樹寺祐天名号石塔、建立

富山県の猪谷宝樹寺に祐天名号石塔が建立されました。石塔右側面の記述によると、滑川に住む庄治郎という人物が発起人となって建立したようです。

参考文献
「宝樹寺境内南無阿弥陀仏名号塔二基」(平井一雄、『土蔵』9号、砺波郷土資料館土蔵友の会、1997年5月)

寺院

酉蓮社、堂舎完成

11月、増上寺山内寺院である酉蓮社の堂舎が完成しました。酉蓮社は寛延3年(1750)に雅山(宝暦7年「祐天寺」参照)が、学僧たちの勉学の励みのためにと一切経を納めた報恩蔵を建立し、増上寺開山である酉誉聖聡の師、酉蓮社了誉聖冏の御影を本尊として安置して創建したものです。
堂舎が完成した酉蓮社は、このときの増上寺住職智瑛(明和7年「寺院」参照)を開基として、浄行念仏道場とされました(天明4年「説明」参照)。

参考文献
『目黒区史』(東京都立大学学術研究会編、目黒区、1961年)、『江戸火災史』(小鯖英一、東京法令出版、1975年)、『大本山増上寺史』本文編(大本山増上寺編集・発行、1999年)、『縁山志』4(『浄土宗全集』19)

風俗

意次、老中に

1月5日、将軍家治の信任を後ろ盾に異例の大躍進を続けてきた田沼意次(「人物」参照)が、ついに幕閣の最高位にあたる老中に就任しました。明和4年(1767)に側用人に任じられて以来、老中格、老中と昇進してきた意次でしたが、家治からは「昵近もとの如し」と命じられ、そばから離れることを許されませんでした。その結果、意次は側用人も兼ねることとなり、政治の表と裏の両面で最高権力者となります。

米を中心とする年貢徴収策につねづね限界を感じていた意次は、商品流通の独占権を持つ株仲間の結成を奨励するなどして商人を保護し、その代わりに商人から納められる冥加金や運上金と呼ばれる税金を幕府の財源にあてることを考えました。実際、家治の治世には約80件の株仲間が公認され、この株仲間を介して江戸や大坂の市場を掌握しました。また、商人の資本をもとに印旛沼・手賀沼の干拓(天明2年「事件・風俗」参照)を行ったり、長崎貿易の支払いに海産物を詰めた俵物を代用して金銀の海外流出を防ぐなど、経済基盤の強化に力を注ぎました。さらに貨幣の一元化を目指して南鐐二朱銀の新鋳なども行っています。

特筆すべきなのは工藤平助の『赤蝦夷風説考』(天明3年「出版・芸能」参照)に刺激を受けた意次が、蝦夷地の開発に目を向けたことです。南下しようとするロシアの動きに注意しつつ、行く行くはロシアとの交易を見据えていました。
重商主義を基本とした経済政策で、幕府の財政再建と体制の強化をはかった意次は、老中就任後も加増を続け、天明5年(1785)には5万7、000石の大名にまでのぼり詰めます。


目黒行人坂の大火

明和9(安永元)年2月29日の午後1時頃のことです。目黒行人坂の大円寺から出た火は南西風の強風にあおられて、たちまち江戸市中へ飛火し、芝から千住、本郷から日本橋へと燃え広がりました。この火事では100か寺とも300か寺とも言われる多くの寺院も被害に遭い、その中には東本願寺や浅草寺、上野寛永寺の御霊屋などもありました。死者は1万8、000人余り、行方不明者も4、000人という、明暦の振り袖火事(明暦3年「事件・風俗」参照)以来の大火となりました。
この火事の原因は、当時26歳になる僧真秀の放火によるものでした。真秀は幼少から素行が悪く、親からも勘当されて江戸で願人坊主の仲間に入り、悪事を重ねていたようです。この日も盗みを目的に大円寺に放火したことが、このような大火に発展してしまいました。真秀は6月21日に市中引き回しのうえ、浅草で火刑に処せられました。

火元となった大円寺は寛永年間(1624~1643)に湯殿山の修行僧が坂を切り開いて大日堂を建てたことから始まったと伝えられ、薩摩藩主島津家の祈祷所でした。しかし、この大火の責任を負い、以後弘化年間(1844~1847)まで本堂の再建は許されていません。境内の五百羅漢像は大火で亡くなった人々の供養のために、天明年間(1781~1788)頃からおよそ50年をかけて造られたものです。
この年は大火に始まり、その被災者たちが仮小屋住まいを始めた秋には暴風雨に見舞われるなど災害が続きました。これは明和9年(めいわく)という年号が悪いのではないかと噂され、ついに11月16日に年号を「安永」と改めました。人々は新しい年号への期待と不安を落首に詠んでいます。

 年号は 安く永くと かわれども 
  諸色高直(諸物価の高騰) いまにめいわ(明和)九

世直しのため急いで年号を改めたものの、翌年には疫病が流行し、大火事や災害により物価は高騰するなど、不安な世相に悩まされ続けることになります。

参考文献
『週刊 朝日百科 日本の歴史84』(近世Ⅱ―⑦田沼意次と松平定信、岸俊男ほか編、朝日新聞社、1987年)、『江戸大名100話』(小和田哲男監、立風書房、1990年)、『新版 史跡でつづる東京の歴史』中(尾河直太郎、一声社、1999年)、『国史大辞典』

芸能

『艶姿女舞衣』初演

12月26日、豊竹座で人形浄瑠璃『艶姿女舞衣』が初演されました。竹本三郎兵衛ほかの合作です。三勝半七が千日前で心中した事件をもとに作られました。半七の初々しい女房のお園が、「今頃は半七さん、どこにどうして・・・・・・」と案じるクドキ(繰り返して説くという意味の動詞、「くどく」の名詞化で、一般に慕情・哀愁などを表現するところを言う)が有名です。

参考文献
『義太夫年表』、『歌舞伎事典』

人物

田沼意次  享保4年(1719)~天明8年(1788)

田沼意次は、紀州藩に仕える下級藩士田沼意行の長男として江戸で生まれました。父意行は吉宗が8代将軍となるのに際して幕臣となり、のちに吉宗の信任を得たことから、意次も享保19年(1734)には世嗣家重の小姓に取り立てられました。家重が9代将軍になる頃には御小姓組番頭、側衆、御用取次と昇進しています。宝暦8年(1758)には評定所に列席を認められて幕政に参画し始めたようで、同時に遠州相良に1万石を拝領して大名となりました。このような異例の出世は、もともと紀州藩系の幕臣が重用されたということもありましたが、何よりも将軍の絶大なる信用を後ろ盾に持っていたからにほかなりません。宝暦10年(1760)に家治が10代将軍に就任すると、明和4年(1767)には側用人に任じられ、俗に言う「田沼時代」が始まりました。そして、安永元年には頂点とも言うべき老中に就任、それまでの質素倹約と米を年貢とする政策から一転して、商業に重点を置く経済政策を推進していくことになります。

商人に株仲間を公認する見返りに冥加金と呼ばれる税金を課して幕府の財源にあてたり、幕府自体が朝鮮人参や銅などの専売を行って販売利益を得るなど、商業資本を巧みに利用していきました。また、新しい貨幣を鋳造して貨幣の流通を統制する試みも見られました。のちに意次の失脚とともに中断されることになる印旛沼・手賀沼の干拓(天明2年「事件・風俗」参照)や、蝦夷地の開発とロシアとの交易などは、成功していれば幕府に多大な利益をもたらしたに違いありません。

意次は次々と斬新な政策に取り組みましたが、逆に前例を無視した商業中心の政策に付いていくことのできない諸大名たちからは恨まれることになります。天明の大飢饉(天明3年「事件・風俗」参照)で困窮する民衆や下級武士の救済に苦慮しているところに、嫡子意知の殺害事件(天明4年「事件・風俗」参照)が起き、意次の失脚を早めることになりました。

天明6年(1786)に家治が薨去するとともに意次は失脚。所領のうち4万7、000石と居邸を没収され、別荘に蟄居謹慎を命じられます。意次は天明8年(1788)7月24日、失意のうちに70歳でこの世を去りました。

商業を重んじる政策は商人との癒着を生みやすく、田沼時代に賄賂が横行したことは否定できませんが、裕福な商人を中心とする資本経済のもと、自由で伸びやかな町人文化が花開いた時代でもありました。実際のところ意次についての悪評の多くは失脚後に流されたもので、一説には政敵であった松平定信(天明8年「人物」参照)らによって、幕府への批判をそらすために故意に流されたのではないかとも言われています。

腐敗政治を招いた悪徳政治家のように長く語られてきた意次ではありますが、現在では研究が進められ、斬新な改革を行った先見性のある優れた政治家であったと再評価されつつあります。

参考文献
『週刊 朝日百科 日本の歴史84』(近世Ⅱ―⑦田沼意次と松平定信、岸俊男ほか編、朝日新聞社、1987年)、『江戸の大名100話』(小和田哲男監、立風書房、1990年)、『朝日日本歴史人物事典』
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