越中魚津(富山県魚津市)大泉寺21世海応が遷化しました。海応は祐海の弟子として修行した人物です。大泉寺資料には岸蓮社到誉上人春阿海応大和尚とあり、没した日は3月4日です。
越前大野(福井県大野市)善導寺所蔵の利剣・宝珠名号を、祐全が開眼しました(明和4年「祐天寺」参照)。
6月13日、祐天寺末である大森薬師堂中興の、香残が遷化しました。開山祐天上人の随従であり、祐海の時代から祐天寺を支えてきた人物です。寺録を筆記したのも香残です。
7月21日、牧野越中守より千部修行について検使が来寺した折に尋ねられて、ご紋付きの品について書付を出しました。
10月3日、祐全は増上寺役所へ参上し、瑞泰院念仏定書をいただきました。仏前の香華灯明、掃除はていねいに行うこと、ただし線香供養は禁じる、また綺酒(葱・にんにくなどと酒)はもちろん、歌舞高声(歌や踊り、大きな声で騒ぐこと)、囲碁双六、勝負ごとは禁じるなど、細々と決められたことが記されています。
7月に祐全は、宝暦6年(1756)に祐海が記した「紺紙金字祐海上人六字名号」を表装開眼しました。現在も祐天寺に蔵されています。
鳥取県智頭町下三昧に祐天上人名号石塔が建立されました。三昧とは墓所のことで、この呼び名は鳥取県では智頭町だけに見られるものです。大正4年(1915)に出版された郷土誌『智頭』によると、篠屋の庵の庵主が能書家で、この庵住により真似て書かれたものを彫り付けたとも言うようです。
11月、弁秀の辞職により伝通院35世智瑛が増上寺48世住職になりました。智瑛は、檀通上人遷化後に祐天上人が随身となった増上寺28世の詮雄(延宝3年「祐天上人」・「寺院」参照)を拝して得度し、さらに祐天寺本尊である祐天上人像の開眼供養の際に導師を勤めた白随の学寮に入り修行を積んだ人物です。大変賢く、また将軍家治の正室心観院殿(明和8年「祐天寺」参照)の追善供養を私的ながらも厳修したことで、幕府からほうびをたまわりました。
6月5日より中村座で累物の歌舞伎『敵討忠孝鑑』が初演されました。板額御前の腰元累が板額の恨みの一念で面体が醜く変わるという趣向があります。