明顕山 祐天寺

年表

明和4年(1767年)

祐天寺

裏門下馬札―その2

正月13日、土岐美濃守に呼び出されて役人犬塚九郎兵衛と会い、下馬札を拝領地内御成御門の際に建てるとした絵図面を提出しました。正月27日、土岐美濃守に呼び出されて赴くと、寄合の席に召し出され、裏門下馬札が許可されたことが直達されました。引き取ってから祐全は各所へお礼回りをしました。

2月23日、見分が行われました。同28日、土岐美濃守より呼び出されて祐水が赴くと、下馬札を建てる場所(図の矢印)の生け垣を刈り込むよう指示がありました。
生け垣を刈り込んだ報告をしたところ、3月13日が下馬札建立と決まり、建立が行われました。しかし、表向きには建立を17日とするよう指示がありました。そのとおり3月17日、祐全は寺社奉行、増上寺へ届けを出しました。

参考文献
『寺録撮要』5

祐天上人50回忌

7月15日、祐天上人50回忌にあたり、祐全は祐天上人が所持していた鉦(享保3年「祐天上人」参照)を模造した鉦を50個造り、利剣名号幅、丸くデザインされた宝珠名号幅、百萬遍数珠とともに縁故に配りました(「説明」参照)。現在これらを所持されているのは、福島県いわき市祐天上人生家新妻家、岩手県千厩町伊藤一氏宅、岩手県一関市光西寺、岩手県一関市長安寺、福井県大野市善導寺、埼玉県三郷市明王院などです。

参考文献
鉦銘文(新妻家所蔵)、『普勧百萬遍念仏疏』(光西寺蔵)

説明

『普勧百萬遍念仏疏』

『普勧百萬遍念仏疏』という冊子が祐天上人50回忌に製作された鉦・百萬遍の数珠と一緒に配られました。これは大我により、百萬遍の道具の説明だけでなく、百萬遍念仏をなぜ修するのか、どのように勤めたら良いのかが記されており、授与された人たちへの教本とも言うべきものです。

この本では、まずは世間のはかなさが述べられ、悠々と日を暮らすことなく、仏道を修めるべきと言い仏道を勧めています。

次に、仏法の中で、念仏をもって最勝とする理由を述べ、広く諸々の厄難を救う仏の意を表した利剣名号と、あまねく諸々の貧困の苦しみから救う仏の意を表した宝珠名号を掛けて百萬遍を行ずることを勧めています。百萬遍念仏を修する者は、利剣名号を右に、宝珠名号を左に掛けて、お香や花を供え、ろうそくを灯し、丸く座して数珠をいただき、合掌して善導大師の発願文を唱え、鉦をたたいて念仏すると説明し、南無阿弥陀仏と六字がはっきり聞こえるように唱えるように勧めています。

その後に、この時代は宗内でも問題になっていたと思われるため、念仏を現世祈祷のために申すべきではないということについての不審に答えています。

また、大我は次の歌にあるように善導大師の『往生礼讃』や『無量寿経』に出る四誓偈の文を引いて、この世とのちの世のために釈尊の教えによって念仏することを勧めました。

後の世もこの世もともに南無あみだ
仏まかせの身こそやすけれ

後の世まで我みにそへるたからには
南無阿弥陀仏にしくものはなし

唯たのめあみだほとけの名取川
世ゝの埋木浮かぶとぞきく

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