明顕山 祐天寺

年表

明和3年(1766年)

祐天寺

水鉢の寄進

3月15日、水鉢が寄進されました。表に寺紋である鐶一の紋が刻されています。施主は麻布の相模屋長兵衛、松屋庄次郎、藤屋半七です。

参考文献
「区内社寺の手水鉢」(伊藤豊次郎、『郷土目黒』21集、目黒郷土研究会、1977年)、「目黒・祐天寺の御手水と噴水」(平山勝蔵、『目黒区郷土研究』330号、目黒郷土研究会、1982年)

開帳

翌年は祐天上人50回忌と天英院27回忌にあたることから、この年の4月朔日より60日間、祐天寺において阿弥陀如来像と祐天上人像および寺宝の開帳を行いました。

参考文献
『開帳免許帳』(国会図書館蔵)、『武江年表』1

永代千部講などの回向、開始

4月、永代千部講と永代百萬遍講の15日切回向が開始されました(宝暦12年「祐天寺」参照)。15日は祐天上人の月の命日であり、前記の講のほかにもこの日に回向を申し込んだ団体は多かったのです。

参考文献
『本堂過去霊名簿』

石灯籠の寄進

4月15日、常夜灯として石灯籠が1対、寄進されました。本堂前に現存しています。「浅草下町連中」と「山手麹町連中」から1基ずつの寄進です。麹町には信者が多かったようで、毎月15日には麹町千部講231霊の切回向が行われていた記録も残っています。

参考文献
『本堂過去霊名簿』

下馬札―その6

正月5日、前の年の暮れに土岐美濃守より増上寺に、諸寺院で下馬札(宝暦11・12・13年、明和元・2・4年「祐天寺」参照)を建てた由緒、年号などのお尋ねがあったことを、祐全は増上寺役者祐月から聞きました。

さらに同月10日、祐全は土岐美濃守役宅へ参上し、役人犬塚九郎兵衛より、内々の話であるが春には沙汰もあるだろうと聞きました。そのため正月中、祐全は増上寺役者より土岐美濃守へ差し出した、諸寺院の下馬札訳書の下書を入手しました。

6月28日、祐全は土岐美濃守屋敷に呼び出されました。今日中に釣鐘の銘文を差し出すように仰せ渡しがあり、記して提出しました。翌29日、土岐美濃守より役人熊田平馬ほかが来寺し、釣鐘堂を見分しました。7月7日暮六つ時(午後6時)、寺社奉行土岐美濃守より、明日五つ時(午前8時)に役宅へ参上するよう呼状が来ました。祐全が赴いたところ評席に呼び出され、下馬札願いはかないがたいとして5年前からの願書をすべていったん差し戻されました。しかししばらくしてまた増上寺役者曇龍とともに呼び出され、美濃守より直々に下馬札の建立を許す旨の仰せ渡しがありました。年来の心願が成就した祐全は増上寺役所へ届け、役人方へお礼回りをしました。

7月17日、下馬札地所見分のため、作事方の正木志摩守より役人が遣わされました。惣門外の地所の見分が行われ、杭を打ちました。同日七つ時(午後4時)土岐美濃守より呼状が来て、このたびは表門のみ下馬札を建てるようにと達しがありました。

7月25日、土岐美濃守より呼状が来たので参上したところ、明日下馬札地所見分に正木志摩守が来寺する旨の達しがありました。26日六つ半(午前7時)過ぎに役人が来寺し、五つ半時(午前9時)頃に正木志摩守が来寺しました。釣鐘堂の牌名などをご覧になり、書院に通られてから表門外の建造場所を見分されました。そののち吸物、酒などと二汁五菜をお出しし、祐全も相伴し、志摩守は九つ時(正午)前に引き取られました。翌27日、土岐美濃守へ届けを出し、前の日に見分に来られた正木志摩守ほかへも挨拶の使僧を出しました。

8月朔日、下馬札地所見分のため、御徒目付衆、御小人目付衆が来寺しました。いつ下馬札を建てることになるかなど具体的な事柄を尋ねました。杭は土に埋まっているから早く腐るだろうが、見分を願えば修復ということになるから、決して勝手に杭を補修などしないように、などの実務的な指図もありました。

同月10日、正木志摩守より手紙で、下馬札は材木を受け取って木の部分ができてからも承認等に時間がかかるので、できたときに知らせる旨の通知がありました。祐全は返書で下馬札の場所の地形を整え、石垣を修繕しておきたい旨を伝え、許可を得ました。

同日、馬喰町伊奈家より呼状が来て、役僧祐水が参ったところ、伊奈備前守支配の場所に下馬札が建立となるにつけ、心得違いがないようにと公儀より備前守へ申し付けがあったので、近々各持ち場へ触れを回すということでした。お礼のため、翌日祐水が使僧として伊奈家へ赴きました。

8月24日、伊奈家より証文の写しが届きました。下馬札建立につき、心得違いがないようにと、名主・年寄・百姓代が連印のお請け書を差し出すようにという、お触れを出すという証文の写しです。

同月晦日、渡辺林蔵ほかが入来し、今日下馬札を建てると告げました。やがて使者が下馬札を持参し、御徒目付沢田平三郎が来寺してほどなく札を建て始めました。建て終わると御徒目付の見分があり、それも無事に済みました。

9月朔日、祐全は御掛かり土岐美濃守、増上寺役所、新地奉行へ届書を持参しました。同日、増上寺からも、門前往来の百姓小者の心得違いがないよう、近郷へお触れを出してくれるよう、伊奈家より受け取った郷方請書の写しを添えて、願書を出しました。また同日、作事奉行正木志摩守殿へ直参し、謝礼を述べました。

10月11日、祐全は書付で寺社奉行土岐美濃守へ下馬札が建った件を届けました。祐天寺の資料には安永2年(1773)に逝去した戒浄院殿について「下馬札寺格御世話人 御本丸上臈御年寄松嶋トノ」と書かれており、下馬札申請に関してはこの人物が関わっていた可能性があります。

参考文献
『寺録撮要』5、『本堂過去霊名簿』

裏門下馬札―その1

10月17日、寺社奉行土岐美濃守へ裏門下馬札の願書を出しました。11月19日、呼び出されて久世出雲守役宅内寄合へ赴いたところ、願書について追って沙汰がある旨の仰せ渡しがありました。祐全はさらに抱え地について書付と絵図を提出しました。

12月24日、祐全は土岐美濃守役宅に呼ばれ、役人犬塚九郎兵衛に会いました。下馬札を裏門外の抱え地に建てるのでは法に触れる恐れがあるので、御成門の際の拝領地に建てるようにと助言されました。

参考文献
『寺録撮要』5

法心院、逝去

6月2日、法心院(右近の方)が逝去されました。将軍家宣の側室で、家千代母堂であり(宝永4年「祐天上人」参照)、祐天上人から宗脈と念珠を受けた人物です(正徳3年「祐天上人」参照)。

参考文献
『寺録撮要』5
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