正月12日、祐全は土岐美濃守へ、有章院殿(7代将軍徳川家継)の50回忌にあたる年ということを理由に下馬札願書を提出しました(宝暦11・12・13年、明和元・3・4年「祐天寺」参照)。
4月28日、宝暦11年(1761)に大坂源正寺が祐天寺の末寺となった旨を増上寺に届け出ました (宝暦11年「祐天寺」・「説明」・宝暦13年「祐天寺」参照)。また、5月14日には起立由来書と定書を、増上寺の判を受けたうえで源正寺に送りました。
8月24日、寺社奉行月番土井大炊頭へ、千部修行をしたい旨の願書を出したところ、9月18日、祐全は寄合に召し出され、戌年(明和3年―1766―)より未年(安永4年―1775―)まで10年間の千部修行を許可されました。即日寺社奉行にお礼回りをし、増上寺役所へ届けました(宝暦5年「祐天寺」参照)。
元禄9年(1696)~明和7年(1770)
捨世派の高僧として知られる関通は、尾張国海西群大成郷(愛知県海部郡立田村)に生まれました。5、6歳の頃からすでに出家を望み、遊びながらも僧のような振る舞いをする息子を見た両親は、彼を浄土宗の専徳寺に預けました。しかし専徳寺住職は、関通の仏を敬う心が並でないことに気付くと、もっと高徳の僧のもとで修行させようと真言宗の寺院へ預けます。ところが、1年ほどで関通は専徳寺へ戻ってきてしまいました。関通は浄土宗の教えを受けたかったのです。そこで今度は、中一色村(愛知県津島市)の西方寺の霊徹に預けられ、ここで関通は剃度して名を元教としました。13歳のときです。翌年には、一刻も早く学問を修めたいという関通の願いにより、霊徹の計らいで増上寺学寮への入門が許されました。
正徳元年(1711)16歳になった関通は、江戸へ出府して正式に増上寺学寮へ入り、翌年、このとき増上寺住職であった祐天上人から五重を受け、さらに21歳で宗・戒の両脈を授かりました。このときの関通は、学僧の中でも英才を賞されるほどになっていました。
28歳の春、学問を修めて国元へ帰る途中の箱根の関で、ふと、生と死の関所を通るには念仏が手形になるのだと悟り、このとき名を関通と改めました。この頃から捨世主義(上級寺院へのいわゆる「出世」を望まず、法然上人の遺風を慕って念仏に励むこと)に目覚め、諸国遊歴の旅に出るようになります。しかし遊歴中、1人の老僧から師僧らの存命中に遊歴するのは不孝であると諭され、関通は自分の修行の方法に疑問を持ちました。そんなときに、捨世主義を貫いた高僧として名を知られた無能(寛延3年「祐天寺」参照)の行業記を読み、遊歴するより閑居して日々専修念仏に励むことが大切であると感じ、諸国遊歴をやめることを決心したのです。関通31歳のときです。そしてそれまで住持していた伊勢国(三重県)光岳寺を辞め、草庵に籠居しました。
それからの関通は、昼夜を問わず念仏する日々を送ります。夜も横になることはなく、食べ物に困れば自活し、余れば近隣の村に分け与えました。その際には必ず念仏の素晴らしさや因縁の恐ろしさを教えたので、近隣の村々では悪事を働く者がいなくなったと言います。他宗徒の中には関通の教化の力をねたんで説法の邪魔をする者もいましたが、関通の教えにしだいに正しい心を取り戻していきました。桜町天皇の皇后をはじめとする宮中女御たちからの帰依も篤く、多くの老若男女が関通の教えを求めました。関通が生涯に行った説法の回数は1万3、000余、得度授戒した人は3万人以上に及んだそうです。
僧侶や尼僧の養成に努めた関通は、説法の足場としていた西方寺で不断念仏を始め、さらに知恩院へ何十回となく願い出て西方寺を律院(戒律を守って修行する寺院)に変え、名も円成寺と改めました。その後も尾張国、江戸、京などに併せて16か寺を創建・再建し、著書も31部80巻余書き上げるという業績を残しています。
京北野の転法輪寺で関通が遷化した際には、彩雲が転法輪寺の上を覆い、そこから光明が差し込んで、やがて光明彩雲ともに西へ去るのが見られたと言います。享年は75歳でした。