2月28日、真乗院3世である察然が示寂しました。
法号は祥蓮社審誉上人直入酉阿察然和尚です。
真乗院(「説明」参照)は正徳2年(1712)に創建されました。初代住職が祐天上人の弟子億道だったことなど祐天寺と縁の深い寺院です。
5月22日、祐全は松平和泉守へ下馬札の願書を出しました。6月22日、松平和泉守は大坂城代となったため下馬札の件は土岐美濃守へ送られたことを、祐全は知ります。7月12日に改めて美濃守へ願書を出し、8月5日には再度書付を提出しました(宝暦11・12・13年、明和2・3・4年「祐天寺」参照)。
薩摩藩主島津家は竹姫の影響により、祐天寺に信仰を寄せていました(「説明」参照)。7月26日、島津重豪(安永2年「人物」参照)の息女が逝去しました。
法号は照雲院殿桂巖恵月大禪童女です。祐天寺過去帳に法号が載ります。
9月17日、竹姫附き上臈萩原が逝去しました。祐天寺に納められた法号は、豊信院殿圓誉壽迎大姉というものです。小金東漸寺に竹姫が寄進した折にもその仲立ちとなるなど、さまざまな場面で竹姫の右腕となって活躍してきた人物です。
9月、経蔵を修復しました。宝暦11年(1761)に引き続いての修復です。
浅草龍宝寺の祐天名号石塔が火災で損失を受け、堂外へ移されました。これは元禄年間(1688~1703)に後藤庄三郎の先祖によって龍宝寺に常念仏が興されたとき、常念仏堂の本尊として安置されたもので、高さは1丈8寸(約3.6メートル)幅2尺5寸(約83センチメートル)で、4面とも名号が彫られていたようです。
芝真乗院は文昭院殿(家宣)の霊廟をつかさどる別当寺院で、正徳2年に創建されました。初代住持は祐天上人の弟子の億道でした(正徳2年「祐天寺」参照)。池を配した庭園の美しさが伝えられています。億道以後、歴代の住持は義矜、察然、察岸と続いていきます。
真乗院歴代(億道から、大正3年―1914―寂の14世順応まで)の名を記した墓石が、祐天寺にあります。墓石は塔身が亀の上に立つ、亀怺の形です。
島津家関連の法号がいくつも祐天寺に納められています。そのうちの1人、島津宗信(慈徳院殿俊岸良英大居士。寛保元年―1741―寂)は、島津継豊の嫡男として生まれました。母は渋谷氏でしたが、継豊正室である竹姫(綱吉養女、享保10年「人物」参照)に養われました。宗信は2歳のときに竹姫に従って大奥に参り、徳川吉宗手づから延寿国重の脇差しをたまわりました。松平の称号も宗信がたまわり、以後島津家の嫡子が称するようになったものです。22歳で病のため卒しましたが、島津家と祐天寺との関係は、祐天上人を深く信仰し島津家に嫁した、竹姫による影響があると思われます(文化2年「祐天寺」参照)。
3月24日、大坂の中山文七座で、累物の歌舞伎『長崎丸山細見図』が上演されました。累に関係のある筋は、次のようであったようです。
島田ゆきへ丞の忠臣みやたき伊平太は、主人の苦境にあたり、主人の子を懐胎した侍女いとたけを下女おたけとしてかくまいます。その折、伊平太は与右衛門と改名しています。しかし、妻のかさねはそのことを理解せず、おたけの子は夫の子であると誤解し、嫉妬しておたけを殺そうとします。与右衛門はかさねがおたけを殺したと思い、きぬ川で鎌でかさねを殺します。かさねの死霊は娘のおきくに名残を惜しみにきます。
この年、大坂の中山文七座で歌舞伎『かさね』が上演されました。内容については不明です。