明顕山 祐天寺

年表

宝暦12年(1762年)

祐天上人

下馬札―その2

 正月23日、祐全は再び下馬札の願書を出しました。当年は天英院殿23回忌にあたるという理由をもってのことです。預かり置きになりました(宝暦11・13年、明和元・2・3・4年「祐天寺」参照)。

参考文献
『寺録撮要』5

祐益、入寂

 11月16日、祐天寺3世祐益が寂しました。法号は寛蓮社仁誉上人但阿至心祐益和尚です。延享3年(1746)に祐天寺住職となる前、増上寺では碧雲室(宝永5年「説明」参照)の寮主も勤めた人物でした。祐天寺には墓石が残ります(延享3年、宝暦2年「祐天寺」参照)。

参考文献
『本堂過去霊名簿』、『縁山志』8

講の発達

この頃からさまざまな講が発達し、また外部の講が祐天寺に供養を申し込んだようです。『本堂過去霊名簿』を見ると、十五日切回向のところに、天保に至るまで40余りの講の名が記されていますが、「寛延宝暦度」と記される「永代万人講會八十六霊等」、「永代千部講六百七十六霊」などは、その中でも一番早い時期に行われた部類に属します。永代千部講の建立した石碑が祐天寺に現存します。このあと文化7年(1810)には「常念仏資料講四千四百六十六霊」が回向されています。常念仏はこのような講の寄進によって支えられていたのです(文化7年「祐天寺」参照)。「畳講中」「永代千部千夜蝋燭講」などという名も見えます。
 祐天上人、祐天寺への信仰が世間で盛んになっていた証と言えましょう。

参考文献
『本堂過去霊名簿』

寺院

異安心事件

 異安心とは真宗における教義上の異端のことを言います。宗義の解釈の違いにより、鎌倉時代からさまざまな異安心事件が起こりました。特に「三業惑乱事件」と呼ばれる異安心事件は、44年も続く騒動となりました。発端は、この年に出版された『願生帰命弁』という書で、これは本願寺派学林(僧侶の修学道場)の功存が本山の命を受け、異安心を唱えたという浄元寺龍養を回心させるために説いたものをまとめたものです。本山はこの功存の説を讃えましたが、地方の僧たちの中にはこれを邪義として反論する者が続出しました。
功存が遷化したのちも、教義は能化職(学頭として学事を統治する者)の智洞が受け継ぎ、やがて学林の僧対地方の僧という形の争論に発展していきます。そして享和2年(1802)に美濃国大垣の信徒が蜂起して騒動を起こすという事件が起きると、寺社奉行が解決に乗り出し、とうとう幕府にその処理が委ねられることになったのです。 

幕府の裁決により、双方に脱衣追放・押し込み・逼塞などの処分が与えられ、さらに本山にも百日の閉門を申し渡されました。

参考文献
『真宗史仏教史の研究』Ⅱ 近世篇(柏原祐泉、平楽寺書店、1996年)、『国史大辞典』、『真宗大辞典』(岡村周薩編、鹿野苑、1963年)

風俗

池上新田の開発

大師河原村(川崎市川崎区)は、海や川に面しているため土地が狭く、慢性的な耕地不足に悩まされていました。そこで名主の池上幸豊は延享3年(1746)8月、江戸幕府に海辺の土地100町歩(約100ヘクタール)の新田開発を願い出ます。規模があまりにも大きく前例のないことだったので、幕府はなかなか許可を出しませんでしたが、宝暦2年(1752)の秋に15町歩(約15ヘクタール)の開発が認められ、翌3年(1753)に着工しました。
 幸豊が採用した干拓方法は「笹出し」と呼ばれるもので、まず風の強い日に海中の砂の様子をよく見て杭を打ち、その周りに笹を立てて砂が集まりやすいようにし、砂山ができたら茅や芦を植え付けて固めるというものです。この作業を地道に繰り返し、少しずつ土地を拡大していきました。
 工事の期間中、宝暦6年(1756)には大波により、翌7年(1757)には六郷川の大洪水で堤が流されるという不幸に見舞われました。しかし、新田完成後には新田の一部を作業にあたった人々に割り当てるという方針で望んだので、小百姓や水呑み百姓が奮って作業に参加し、工事期間の短縮化につながったようです。宝暦9年(1759)には、ほぼ予定どおりの14町5反歩の新田が開発されました。こうして6年の歳月と760両余りの私財を投じて開発された新田は、この年「池上新田」と命名され、1つの村となりました。
 また、幸豊は新田開発のほかに和製砂糖(寛政9年「出版・芸能」参照)の製造を行ったほか、製塩や果樹栽培にも貢献するなど、その活躍は多方面に及びました。


後桜町天皇の即位

7月12日、桃園天皇が22歳の若さで崩御されました。世継ぎの英仁親王(のちの後桃園天皇)はわずか5歳。しかも、桃園天皇の父君にあたる桜町天皇が崩御されてからは上皇もなく、朝廷の中心となる天皇が5歳の幼帝となることに摂家衆は強い不安を感じていました。宝暦8年(1758)に桃園天皇の側近たちが処罰された宝暦事件(宝暦8年「事件・風俗」参照)を経験したばかりの彼らにとって、その危惧は当然のことでした。そこで、桃園天皇の姉君にあたる智子内親王が中継ぎの天皇として即位し、最後の女帝(「解説」参照)となる後桜町天皇が誕生したのです。 
 英仁親王に譲位するまでの約8年間には、明和事件(明和4年「事件・風俗」参照)といった、朝廷にとっては頭を悩ませるような事件も起こりましたが、後桜町天皇の暮らしはおおむね平穏でした。書道や漢学を好み『禁中年中の事』『古今伝授の御記』といった宮中公事に関する記録や、千数百首を収める和歌集『後桜町天皇御製』、自筆の日記『後桜町院宸記』などを残しています。

参考文献
『池上新田開発略史』(池上幸健、池上文庫、1944年)、『江戸時代 人づくり風土記』14(ふるさとの人と知恵神奈川、牧野昇ほか監、加藤秀俊ほか編、農山漁村文化協会、1987年)、『川崎史話』(小塚光治、多摩史談会、1965年)、『日本史の中の女性逸話事典』(中江克己、東京堂出版、2000年)、『尊皇論発達史』(三上参次、冨山房、1941年)、『近世の朝廷運営』(近世史研究叢書2、久保貴子、岩田書院、1998年)、『江戸の百女事典』(新潮選書、橋本勝三郎、新潮社、1997年)

芸能

『鷺娘』初演

 市村座で3月より五変化舞踊『柳雛諸鳥囀』のうち、『鷺娘』が初演されました。娘の姿をした鷺の化身が、恋する娘の可憐さと、地獄の業火に責められる苦しみを見せる踊りです。踊り手は2代目瀬川菊之丞で、衣装のうち白綸子の着付、黒無地の帯とも2揃いは、さる屋敷の奥よりたまわったものだと市中で評判が高く立ちました。

参考文献
『歌舞伎年表』、『歌舞伎事典』/dd>

人物

木村蒹葭堂 元文元年(1736)~享和2年(1802)

江戸時代中期において、驚異的な博物館を作り上げた人物として、海外にまでも名を知られた木村蒹葭堂は、大坂北堀江(大阪市西区)に生まれました。名は孔恭、字は世粛、号は巽斎、通称は坪井屋吉右衛門と言いました。家は酒造業を営み、蒹葭堂はこれを継ぐ身ではありましたが、病弱であるためそれもままならず、父の勧めで庭に草花を植えて育てるようになります。やがて親類から本草学のことを知ると、自分が育てた草花の写生をしたいという欲求が起こったらしく、6歳から狩野派の大岡春卜の門人になり、13歳で池大雅(安永5年「人物」参照)に入門します。その後、家業の実務は支配人に任せて自分は名義人となる隠居のような生活のかたわらで、本草学を津島桂庵、漢詩を片山北海に学ぶという、学問三昧の日々を送りました。

蒹葭堂と名乗るようになったのは、およそ18歳頃のことです。自邸の庭に井戸を掘った際、底から葦が出たことがもとになったと言います。葦は別名を蒹葭と言うのです。そして書斎を蒹葭堂と名付け、彼が集めた典籍や書画、標本や古器物類など、数多くの奇書・珍品を収めたり、集めた書籍の中から気に入ったものを出版したりしました。ここから出版されたものは、「蒹葭堂版」とも呼ばれ、当時の出版物の中にはこれを底本とする本もあったそうです。
蒹葭堂の収集品は貴重で珍しいものが多く、蒹葭堂の噂を聞き付けた多くの文化人たちがそのコレクションを見るために訪れています。その中には外国人やこの時代を代表する著名人である大槻玄沢や松浦静山(安永7年「人物」参照)、司馬江漢(文化5年「人物」参照)、上田秋成(文化6年「人物」参照)、最上徳内(天明6年「人物」参照)、大田南畝(文政6年「人物」参照)などがいました。また、交遊のあった人物は、生涯にわたって蒹葭堂を敬慕したという伊勢長島藩主増山正賢(雪斎)をはじめ、名もなき市井の町人まで大勢おり、そのすべてを数え上げるのは至難の技です。これらの人々はコレクションだけでなく、蒹葭堂自身の人柄に惹かれるところもあったのでしょう。彼は、学者や文人としての才能はあまり高くなかったようですが、性格はおっとりとしていて社交的で客の饗応も実にまめまめしく、とても楽しげに訪問客にコレクションを披露しては、唐土渡来の茶や果物を振る舞ったそうです。

寛政2年(1790)、蒹葭堂は酒の過醸の罪に連座して、増山正賢の計らいで伊勢川尻村(三重県桑名郡長島町)に退隠しました。その際には、一時蒹葭堂の書斎も閉鎖となりましたが、寛政5年(1793)には帰坂して再開し、以後は享和2年に蒹葭堂が67歳でこの世を去るまで続けられました。蒹葭堂死後、膨大なコレクションは500両で幕府が買い上げ、なかには現在も貴重品として珍重されているものも多くあるそうです。

参考文献
『木村蒹葭堂のサロン』(中村真一郎、新潮社、2000年)、『彩色江戸博物学集成』(下中弘編、平凡社、1994年)、『木村蒹葭堂資料集 校訂と解説』1(佐藤卓彌ほか編、蒼土社、1988年)、『国史大辞典』、『朝日日本人物大事典』
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