明顕山 祐天寺

年表

宝暦11年(1761年)

祐天寺

家重、増上寺に葬る

6月12日、昨年亡くなった9代将軍徳川家重を惇信院殿と法号し、増上寺に葬りました。祐天寺にも位牌が納められました。

参考文献
『浄土宗大年表』

経蔵の修復

7月、経蔵を修復しました。この経蔵は宝暦8年(1758)に建立されたものです(宝暦8年「祐天寺」参照)。

参考文献
『寺録撮要』2

源正寺、末寺に

8月25日、大坂源正寺(大阪市阿倍野区)から祐天寺の末寺になりたいという申し出があり、受け入れて上申することになりました。大坂奉行所と代官所へは9月25日、祐天寺代僧と源正寺住職祐説が同道して届け、即日聞き届けられました。源正寺は貞享4年(1687)に藤本祐徹が開創し、息子の祐説が住職を勤めていました。祐説は祐天寺の祐海上人のもとで修行した僧侶であり、その縁からこの申し出となったのです(宝暦11年「説明」、宝暦13年、明和2年、天明7年、寛政2・11・12年、文政3年「祐天寺」参照)。

参考文献
『寺録撮要』5、『大阪府全志』2(井上正雄、清文堂出版、1922年初版発行、1975年復刻)

下馬札―その1

10月22日、文昭院殿(6代将軍徳川家宣)50回忌の年にあたり、祐天寺の釣鐘には文昭院殿のお名前もあることにつき、下馬札(これより内は乗馬を禁ずるという旨を記した札で、貴人の邸宅・寺社仏閣・将軍屋形・城などに建てられた)を許可していただきたいという願いを寺社奉行に提出しました(宝暦12・13年、明和元・2・3・4年「祐天寺」参照)。

参考文献
『寺録撮要』5、『国史大辞典』

『祐海和字略伝』を感霊が執筆

12月、『祐天寺二世祐海上人和字略伝』という書物を増上寺の僧であった感霊が執筆しました。祐海の伝記です。著者の感霊は大巌寺の雅山の弟子であり(宝暦7年「祐天寺」参照)、小金東漸寺住職、京都の金戒光明寺45世住職を勤めた人物です(天明3年「祐天寺」参照)。

参考文献
『祐天寺二世祐海上人和字略伝』奥書(祐天寺蔵)、『浄土宗大辞典』

説明

大坂源正寺

大坂源正寺は、以前は大阪府上本町6丁目にありましたが、大正13年(1924)に阿倍野区の現在の場所に移転しました。寺紋が祐天寺と同じ鐶一の紋であることをはじめ、祐天上人名号石塔、祐水上人名号付き経塚など、境内には開山である祐天上人とかかわりのある遺跡も多く遺されています。祐天名号付きの喚鐘には寛政11年(1799)に開山祐天上人の御影堂が新造されたことが記されており、祐天上人への信仰が長く続いていたことをしのばせます(宝暦11・13年、天明7年、寛政2・11・12年、文政3年「祐天寺」参照)。

参考文献
『大阪府全志』2巻

寺院

目黒長泉院の建立

宝暦3年(1753)、宗風刷新のためにと、増上寺45世大玄(宝暦3年「寺院」参照)が思い立った律院(戒律を守って修行する寺院)の建立計画は、宝暦11年になってようやく武州多摩郡の無住寺院から「長泉院」の院号が引き移され(当時は新しい寺院の建立が禁止されていたために、このようなことが時折行われました)、いよいよ堂宇の建築が始まることになりました。
このときすでに大玄は遷化していましたが、弟子の千如と大玄に深く帰依する北川保久仙とがその遺志を継いでいました。千如は、保久仙からの浄財により中目黒に土地を購入して寺地とすると、奥州桑折(福島県)の無能寺2世不能(寛延3年「祐天寺」参照)を同じ中目黒にあった幡龍寺へ請じ、長泉院建立の指揮を執ってもらっていました。しかし、未完のまま翌12年(1762)に不能も遷化し、今度は京から普寂徳門を招いて完成させました。
このような経緯から、長泉院は開山を大玄、2世を不能、3世を普寂徳門として代々律師(戒律に精通した高僧)が住職となったのです。

参考文献
「華頂誌要」(『浄土宗全書』19)、『浄土宗大年表』、『目黒区大観』(村上三朗編著、目黒区大観刊行会、1935年)、『目黒区史』(東京都立大学学術研究会編、目黒区、1961年)、『新編武蔵国風土記稿』2(蘆田伊人編、雄山閣、1972年)

出版

この頃『鬼怒川紅葉模様』出版

富本の『鬼怒川紅葉模様』がこの頃に出版されました。かさねの死霊が憑いた菊を、奇妙院という山伏が加持するという内容です。

参考文献
『義太夫年表』

芸能

『下総国累物語』上演か

この年、豊竹座で累物の人形浄瑠璃『下総国累物語』が上演された可能性があります。

参考文献
『義太夫年表』、『鬼怒川紅葉模様』(国立音楽大学蔵)、「累狂言の趣向の変遷―『伊達競阿国戯場』以前」(東晴美、『文学研究科紀要』 別冊第20集、早稲田大学大学院、1993年)
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