明顕山 祐天寺

年表

宝暦10年(1760年)

祐天寺

祐海、遷化

元旦の亥の刻(午後10時頃)に、祐海は右手に引接の糸と念珠を取り、左手に阿弥陀経を持って頭北面西(釈迦の涅槃のときにならった形で、頭を北に向け顔を西に向けた形)で横たわりました。至心に念仏するその声がしだいにかすかになり、やがて舌を動かすのみとなって禅定に入るがごとく安らかに遷化しました。正月2日のことでした。享年79歳でした。遷化の際は異香が室内に満ち、天上の楽音が聞こえ、西方に瑞雲が光を帯びて現れました。祐海の遷化を聞き伝えて、その遺骸を拝するために訪れる者は枚挙にいとまがありませんでした。

7日のちに荼毘に付し、舎利数百を得ました。増上寺第46世住職の妙誉は祐海の徳を賞嘆して中興開山大和尚の号をたまわりました。

祐海は第2世、第5世と2度にわたり祐天寺の住職を勤め、前後30余年の在職の間に諸堂伽藍を造り上げました。また、その学問の成果は『威儀略述』(宝暦4年「出版・芸能」参照)『無量壽讃』『西教含子篇』などいくつもの著作にまとめられました。祐天上人のあとに偉大な後継者が出たことが草創期の祐天寺の基盤を作ったのでした。

参考文献
『開山大僧正祐天尊者行状・中興開創祐海大和尚略伝』、『祐天寺二世祐海上人和字略伝』

祐全、第6世住職に

1月13日、祐全が32歳の若さで祐天寺第6世住職となりました。祐全は磐城の新妻喜兵衛尉政次(祐天上人の妹の孫)の3男として誕生し、10歳で出家して祐海のもとで修行していたのです。

参考文献
『寺録撮要』1

紀州家より提灯を拝領

3月5日、紀州中納言徳川重倫より葵紋付き手すり提灯を拝領しました。6日、祐全は紀州家の女中の三保崎らのもとへお礼の手紙を出しました。

参考文献
『寺録撮要』5

祐海廟塔、建立

4月13日、祐海の百か日にあたり廟塔が建立され、廟塔成就の誦文の草稿を祐全が作成しました。誦文には、祐海が自ら指示した自分の廟塔を建てるときの細かな注意や、百か日にようやく祐海の遺命どおりの廟塔が完成したことを弟子たちは感涙を流しながら喜んだということなどが記されています。

参考文献
『寺録撮要』2

島津継豊、逝去

祐天寺に深い信仰を寄せる竹姫の夫である島津(松平)継豊(宝暦4年「説明」参照)が逝去しました。

参考文献
『本堂過去霊名簿』、『寛政重修諸家譜』

人物

徳川家治

元文2年(1737)~天明6年(1786)

家治は元文2年に父徳川家重と母幸子(藤原通季の娘)との間に誕生しました。幼名は竹千代と名付けられました。当時はまだ祖父の8代将軍吉宗の治世でしたが、吉宗は聡明な孫の家治を寵愛したと伝えられています。家治が幼いときの逸話に次のようなものがあります。吉宗が家治に紙を与え、何か字を書きなさいと命じたところ、家治は「大」の1字を書き始めました。ところがあまり大きく書き過ぎたため、字が紙からはみ出してしまいました。家治は構わず畳の上にまではみ出して、大きな「大」の字を書きました。闊達な家治の気質に吉宗は満足したそうです。吉宗は引退後も常に家治をかたわらに置き、将軍の心得を教えたそうです。また、自ら教育係を選んで文武の教育を授けました。

宝暦10年2月4日、父である9代将軍家重が病弱のため隠退したことに伴い、24歳で家治は将軍となりました。家治は館林(群馬県)藩主松平武元と田沼意次を信頼して側近とし、彼らの意見を重用しました。意次を重用したのは、父家重の「自分の没後も田沼を厚くもてなせ」という遺言によったと言われます。

意次は株仲間を公認し、それによって流通市場を統制しようとしました。しかし、その過程で株仲間の特権を得ようと、商人から役人へ賄賂が贈られることが横行したのです。

役人の子はにぎにぎをよくおぼへ
という千柳は、田沼時代の悪習慣を皮肉ったものです。

この経済政策重視の宝暦から天明年間(1751~1788)には都市でも農村でも貧富の差が激しくなり、相次ぐ天災・飢饉がそれに追い打ちをかけ、貧しい農民などには苦しい時代が続きました。

将軍家治は聡明でありながら、意次の専政により自分の手腕を十分発揮できなかったと言われます。また、家治は血縁者を次々に失い、安永8年(1779)には18歳になっていた世嗣の家基までも失いました。

新たに養子になり世嗣に立てられたのは一橋家の嫡子豊千代で、天明元年(1781)豊千代は家斉と名を改めました。この養子人選の中心はもちろん意次であり、意次の弟意誠が一橋家の家老であるなど田沼家と一橋家との関係が深いところから、意次が画策して御三卿の筆頭であった田安家を廃絶同様の状態にし、一橋家出身の将軍を送り込んだのではないかという説もあります。

家治は天明6年「水腫」(水ぶくれ)と「感冒」(風邪)がもとで薨去しました。その死の際に意次による毒殺説が流れたのは単なる噂にすぎないでしょうが、ついに自分の才能を発揮できず意次に操られた将軍であった、また吉宗によって築かれた将軍親政が崩れた時代であったというのが、後世の見方です。

参考文献
「第十代徳川家治」(竹内誠、『徳川将軍列伝』、秋田書店、1974年)、『国史大事典』
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