8月21日、信哲が遷化しました。信哲は祐海の弟子で、俗名は成田義助と言いました。享保4年(1719)6月23日に剃髪しました。当日は金200匹と麻上下と刀大小を祐天寺に納めました。山口伊豆守内九岡吉右衛門の保証と願いにより弟子になったのでした。宝暦8年(1758)に祐天寺に経蔵を建立・寄進しました(宝暦8年「祐天寺」参照)。法号は深蓮社祐誉蒙光浄阿信哲和尚です。
9月、祐全は増上寺宝松院忍海を招き、祐海の姿を写してもらいました。絵像は27日にでき、祐海は絵像の胸に自ら十念名号を書き入れました。祐海が78歳のときの像です。12月28日に表具も仕上がり、自ら開眼しました。
祐海はこの年の冬、宝永2年(1705)に執筆した『愚蒙安心章』(宝永2年「祐天上人」参照)を清書し、識語を付しました。その中に、この書は祐天上人がご覧になり、お誉めいただいたものなので清書する旨が記してあります。
冬、祐海は小病を患い、11月23日に弟子の祐全に祐天上人よりの伝法口決ならびに伝えられた法衣、法具をすべて委ね、十念を授け退任しました。祐海は法燈を継いで以来、早朝に起き、本堂で毎日三時の礼誦(経を読むこと)を行い、時間が少しでもあれば昼夜を問わずに鉦を打ち念仏を行いました。寝ているときも枕のそばに鉦を置き、目が覚めればすぐに鉦を打って念仏を称えたのです。一方で学問にも励み、宗義を精究しました。このような行いはひとえに祐天上人との約束を尊んだからです。
12月1日、祐海は沐浴し浄衣を着して、祐天上人像を座敷に移して荘厳(飾り付け)供養しました。2日にはまた沐浴し浄衣を着して、阿弥陀堂本尊の前で臨終行儀を修し、阿弥陀如来の本願による往生を祈りました。
12月21日、祐海は少し眠ったときに大身の阿弥陀如来を拝しました。仏眼より光を放つと見て目が覚めました。27日から30日まで自ら鉦を打ち高声念仏を続けました。
12月3日、三河国(愛知県)吉田悟真寺住職の宗順が遷化しました。宗順は祐天上人の直弟として修行した人物です。