明顕山 祐天寺

年表

宝暦08年(1758年)

祐天上人

経蔵、建立

 2月13日、経蔵の建立願いを寺社奉行の安部伊予守へ届け、許可を得ました。2間半四方に、4尺に7尺の向拝付きです。施主は当時80歳の祐誉信哲です(宝暦9年「祐天寺」参照)。4月1日、上棟の運びとなりました。棟札には役僧に祐全、納所に智眼、世話に念栖の名が並びます。大工は藤原房繁信安兵衛でした。経蔵には寛保2年(1742)に億道の遺品として寄進された鉄眼版大蔵経が納められ、本尊として夜余りの弥陀(寛延元年・宝暦7年「祐天寺」参照)が安置されました。
 この経蔵の建立を祝って、御紋付きの提灯2張りが竹姫より寄進されました。この提灯は毎年7月の盆供養と同月の千部執行、それに10月の十夜会の折に使うようになりました。

参考文献
『寺録撮要』2・3・4

玉仙院、逝去

 5月9日に土佐山内(松平)家(「説明」参照)の玉仙院が逝去し、14日に遺骸が祐天寺へ葬送されました(宝暦6年・7年「祐天寺」参照)。晴天でありながら舎利(享保元年「説明」参照)が降り、境内だけでなく道筋の屋敷の内、木の葉などにとどまりました。その舎利は多くの人に拾われ、またお附きの者の中にも感夢をこうむる者が多く出ました。祐海は実に稀なことであるとして、歌をよみました。

  なき玉のあます光は世をこえて
      かしこに遊ぶ花にてる影

 祐海は8月10日に玉仙院の石塔の銘をしたため、18日に石塔を建立しました。

参考文献
『寺録撮要』2

説明

土佐山内家と祐天寺

土佐山内家は、松平姓を許された家柄でした。この家と祐天寺との結び付きは、玉仙院に始まると思われます。玉仙院は池田綱政の娘に生まれ、山内豊房に継室(後妻)として嫁ぎました。綱政の娘数人が祐天寺を信仰しており、それが嫁ぎ先へ広がっていったことはすでに述べたとおりです(寛保3年「説明」参照)。池田家にその後はあまり信者がいないこと、綱政の法号に玉仙院御実父と書き添えられていることなどから、娘の中でも玉仙院が特に熱心に信仰を深め、それを姉妹に伝えたのではないかと思われます。玉仙院は祐天寺に勤行用の鐘を寄進(延享元年「祐天寺」参照)しています。

玉仙院の夫君の豊房の法号も『本堂過去霊名簿』に納められています。そののちは3代あとの藩主豊敷(法号は大昌院殿前土州天徳承真大居士)、その子息で藩主の豊雍の正室(法号は観月院殿翠顔妙黛大姉)、豊雍の嫡男で藩主の豊策(法号は泰嶺院殿曄山顕●大居士)、豊策の妹で黒田甲斐守長舒(宝暦4年「説明」参照)に嫁いだ女子(法号は慈明院殿普光清陰大姉)などの法号が『本堂過去霊名簿』に見えます。

参考文献
「土佐松平家と祐天寺」(中島正伍、『THE祐天寺』20号、1992年1月)、『本堂過去霊名簿』

寺院

普化宗僧侶以外の深網笠使用の禁止

 普化宗とは禅宗の一派です。深網笠をかぶり袈裟を掛けて、尺八を吹きながら歩く虚無僧がこの僧徒とされます。江戸幕府がこの宗徒を諸国探索のために利用したので、さまざまな特権が与えられました。そのため、虚無僧を偽って悪事を働く者が出ました。幕府は偽の虚無僧の出現を防止しようと、普化宗僧侶以外の者の深網笠使用の禁止などの法令を出しています。深網笠についての禁止令が出されたのは2回目ですが、今回は深網笠の製造販売業者に対しても、墺全派本山の下総(千葉県)一月寺、活総派本山の青梅鈴法寺からの合印がなければ網笠を売ってはならないとのお触れが出されました。


八十宮、逝去

 9月、家継正室の八十宮吉子が逝去されました。享年は45歳。わずか2歳で降嫁し、家継に先立たれてからはずっと独り身を通しました。享保11年(1726)に内親王の宣下を受け、同17年(1732)に落飾しています。法号は浄琳院。知恩院に葬られました。

参考文献
『浄土宗大年表』、『国史大辞典』、『御触書宝暦集成』(石井良助ほか編、岩波書店、1935年)

事件

宝暦事件

 この年の6月、竹内式部(宝暦9年「人物」参照)が京都所司代(宝暦4年「解説」参照)に捕らえられました。
 式部は神道学・儒学・国学をもって京の徳大寺家に仕える学者で、いつの頃からか式部の講義は、徳大寺公城をはじめ多くの公家たちの人気を集めるようになっていました。講義の内容が、天皇を天照大神の子孫として神格化し、天皇こそが日本の正統な支配者であると主張するものだったため、これまで幕府に支配されてきた現状に不満を持つ、公家たちの共感を得たのです。その中でも特に式部の講義に影響を受けた熱心な公家たちが、交代で桃園天皇に『日本書紀』神代巻を進講するようになります。このことを耳にした前関白一条道香は幕府に知られることを危ぶみ、関白近衛内前らと相談して式部派の公家たちをそれぞれ免官、謹慎、永蟄居などに処しました。また、同時に式部は京都所司代に訴えられたのです。
 6月28日から連日、京都所司代による尋問が始まりました。初めは公家たちに対して軍学武芸の講義をしたかどうかについて厳しく追及されましたが、式部は否定し続けます。そして8月に入ると、尋問は式部の思想にまで及びました。役人は式部に「今の天下は危い天下か」と問いただし始めたのです。ここまで追い詰められた式部は意を決して、「今の天下は確かに危い天下だ」と答えました。さらに式部は、自分は儒学者であり、孔子が『論語』の中で「諸侯(幕府)が政治を行えば、その治世は十代ももたない」と語ったことに従ったにすぎず、しかもそれを講義で話したことはないと続けました。このように儒学の古典解釈に基づいて反論されては、役人たちにはなすすべがありませんでした。
 結局、翌9年(1759)5月、式部は五畿内・関東八国・東海道筋・木曽路・甲斐・近江・丹波・越後・肥前の諸国からの追放を申し渡されたにすぎませんでした。これが、宝暦事件です。
 しかし、この宝暦事件の根は深く残り、のちの明和事件(明和4年「事件・風俗」参照)へとつながりました。

参考文献
『日本の近世』2―天皇と将軍(辻達也、中央公論社、1991年)、『読める年表』、『日本全史』(宇野俊一ほか、講談社、1991年)

出版

『源氏物語新釈』

 全54巻から成るこの本は『源氏物語』の注釈書として賀茂真淵(延享3年「人物」参照)が書いたものです。成立については不明な点もあるのですが、この頃の真淵が仕えていた田安宗武(享保16年「事件・風俗」参照)に請われて書き、宝暦8年4月に完成させたようです。
 古典や古語の研究をしていた真淵らしく、『日本書紀』『万葉集』の用例を取り上げて語釈を付けるなどの独自性がうかがえます。また、旧説の誤りを訂正した箇所も少なくありませんでした。

参考文献
『日本古典文学大辞典』、『国史大辞典』、『日本全史』、「宝暦歌舞伎」〈上方〉(水田かや乃、岩波講座歌舞伎・文楽2『歌舞伎の歴史』1、岩波書店、1997年)

芸能

『『三十石艠始』初演

 12月、大坂角芝居で並木正三作の歌舞伎『三十石艠始』が初演されました。この舞台で回り舞台が初めて使われ、大評判となりました。これは舞台の下で操作して舞台上の円形の大きな板を回転させ、その上の大道具を動かすという仕組みであり、効果的な場面転換ができるようになりました。

参考文献
『日本古典文学大辞典』、『国史大辞典』、『日本全史』、「宝暦歌舞伎」〈上方〉(水田かや乃、岩波講座歌舞伎・文楽2『歌舞伎の歴史』1、岩波書店、1997年)

人物

馬場文耕 享保3年(1718)~宝暦8年(1758)

 近世講談の祖と言われる馬場文耕ですが、その詳しい経歴については謎に包まれています。伊予国(愛媛県)に生まれ、本姓を中井と言い、通称は左馬次。もと僧侶であったが還俗したとか、幕臣であったなどの説があります。しかし、吉宗薨去後の頃からは浪人になっていたようで、名を文右衛門と改めて易術で生計を立てていたそうです。
 宝暦4年(1754)頃から、文耕の活躍は始まります。時事問題や世相を扱った本を著しては貸本屋に売り、そのかたわらで諸家に出入りして軍書などについて講じる座敷講釈を行いました。毒舌的で批判的、それでいて陰湿さはなく豪胆に世相を評した著作物からは、豊かな博識を持ちながらも世になかなか認められない文耕の不満がうかがえます。
 宝暦7年(1757)、釆女が原で「大日本治乱記」という大看板を掲げた講釈を行った文耕は、たちまち奉行所から止められてしまいました。以前から文耕は吉宗を賛美し、当時の家重の治政を批判することが多く、おそらくこのときも幕政をはばかりなく風刺した講釈を行ったのでしょう。それでも文耕はおとなしく言うことを聞こうとはせず、「心学」(享保14年「人物」参照)の名を借りて興行を続けていたと言います。
 しかし宝暦8年、御家騒動で当時有名だった美濃国(岐阜県)郡上八幡城主の金森頼錦の収賄事件(郡上騒動)について、騒動の顛末を講談として語ったために、たちまち文耕は捕らえられてしまいました。文耕は同事件を題材とした『平仮名森の雫』と題した読本も書き上げており、その講談の出席者にくじ引きでこの本を配るということも行っていたのです。異説を言いふらして講釈した罪で、文耕は江戸市中引き回しのうえ獄門との処分を受けました。実はこの裁決は、初め遠島で済むはずでした。しかし評定所での裁きの前に吟味を受けたとき、文耕は幕政を批判して奉行を罵ったために罪が重くなったと言われています。

参考文献
『国史大辞典』、『朝日歴史日本人物事典』、『馬場文耕集』(岡田哲校訂、叢書江戸文庫、国書刊行会、1987年)
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