2月13日、経蔵の建立願いを寺社奉行の安部伊予守へ届け、許可を得ました。2間半四方に、4尺に7尺の向拝付きです。施主は当時80歳の祐誉信哲です(宝暦9年「祐天寺」参照)。4月1日、上棟の運びとなりました。棟札には役僧に祐全、納所に智眼、世話に念栖の名が並びます。大工は藤原房繁信安兵衛でした。経蔵には寛保2年(1742)に億道の遺品として寄進された鉄眼版大蔵経が納められ、本尊として夜余りの弥陀(寛延元年・宝暦7年「祐天寺」参照)が安置されました。
この経蔵の建立を祝って、御紋付きの提灯2張りが竹姫より寄進されました。この提灯は毎年7月の盆供養と同月の千部執行、それに10月の十夜会の折に使うようになりました。
5月9日に土佐山内(松平)家(「説明」参照)の玉仙院が逝去し、14日に遺骸が祐天寺へ葬送されました(宝暦6年・7年「祐天寺」参照)。晴天でありながら舎利が降り、境内だけでなく道筋の屋敷の内、木の葉などにとどまりました。その舎利は多くの人に拾われ、またお附きの者の中にも感夢をこうむる者が多く出ました。祐海は実に稀なことであるとして、歌をよみました。
なき玉のあます光は世をこえて
かしこに遊ぶ花にてる影
祐海は8月10日に玉仙院の石塔の銘をしたため、18日に石塔を建立しました。
土佐山内家は、松平姓を許された家柄でした。この家と祐天寺との結び付きは、玉仙院に始まると思われます。玉仙院は池田綱政の娘に生まれ、山内豊房に継室(後妻)として嫁ぎました。綱政の娘数人が祐天寺を信仰しており、それが嫁ぎ先へ広がっていったことはすでに述べたとおりです(寛保3年「説明」参照)。池田家にその後はあまり信者がいないこと、綱政の法号に玉仙院御実父と書き添えられていることなどから、娘の中でも玉仙院が特に熱心に信仰を深め、それを姉妹に伝えたのではないかと思われます。玉仙院は祐天寺に勤行用の鐘を寄進(延享元年「祐天寺」参照)しています。
玉仙院の夫君の豊房の法号も祐天寺に納められています。そののちは3代あとの藩主豊敷(法号は大昌院殿前土州天徳承真大居士)、その子息で藩主の豊雍の正室(法号は観月院殿翠顔妙黛大姉)、豊雍の嫡男で藩主の豊策(法号は泰嶺院殿曄山顕瑺大居士)、豊策の妹で黒田甲斐守長舒(宝暦4年「説明」参照)に嫁いだ女子(法号は慈明院殿普光清陰大姉)などの法号も納められています。