明顕山 祐天寺

年表

宝暦07年(1757年)

祐天上人

玉仙院位牌所

 5月11日、玉仙院位牌所についての届けが済んだので祐天寺側で造立して欲しいとの旨が伝えられました。そこで祐天寺からも届けを済ませて、5月23日に上棟の運びとなりました。
 上棟当日に祐海が詠んだ歌です。
 
  有りやとも神代はきかじ生霊屋
   なしおかれけんことのまれさよ
  ふくすいをそのう余りに有がたや
       荘厳浄土ここになす君

参考文献
『寺録撮要』2

雅山、遷化

 5月18日、生実大厳寺の住職雅山が遷化しました。雅山は祐天上人の伝法を伝えられ、祐海が住職の時期に祐天上人像の前で弟子となった人物です。弟子として京、黒谷の金戒光明寺第55世住職である感霊(宝暦11年「祐天寺」参照)、酉蓮社(寛延3年「寺院」参照)を創った練城など大勢の逸材を育てました。雅山の弟子たちは皆法類として『本堂過去霊名簿』に法号が見えます。雅山の法号は、貫蓮社練誉上人天阿雅山大和尚です。

参考文献
『寺録撮要』1、『本堂過去霊名簿』、『伝法要偈口決』(大正大学蔵)、『縁山志』4(『浄土宗全書』19)

夜余りの弥陀の厨子、制作

 5月、夜余りの弥陀(寛延元年「祐天寺」参照)を納める厨子が造られました。棟札の表には名号と祐海の花押、裏には夜余りの弥陀の縁起(由来)が書かれました。この厨子は経蔵に安置されました。

参考文献
『寺録撮要』2

祐全父、逝去

 6月5日、のちに祐天寺第6世住職となる祐全(宝暦10年「祐天寺」参照)の父が亡くなりました。磐城の新妻喜兵衛尉政次で、祐全はその第5子です。

参考文献
『本堂過去霊名簿』、『寺録撮要』1

祐門、遷化

 8月22日、相州(神奈川県)糟屋南蓮寺の住職である祐門が遷化しました。祐門は祐天上人の孫弟子にあたり、鴻巣勝願寺や天徳寺に住した祐頓の弟子として修行した僧です。法号は祥蓮社瑞誉上人延阿祐門和尚です。

参考文献
『本堂過去霊名簿』、『寺録撮要』1

祐海、祐天上人像を描く

 祐海は師である祐天上人の像を描き、それに賛を入れました。のちにこの画像は祐全により祐天上人生家に贈られ、今も伝わっています。

参考文献
「祐天上人画像」(新妻家蔵)

宗春側室民部方、逝去

 10月3日、尾張家の徳川宗春の側室である民部方が逝去しました(享保4年「説明」参照)。法号は瑩光院殿称誉念阿智明大姉です。祐天寺に葬られましたが、のち尾張家の菩提寺である建中寺へ改葬されました。

参考文献
『本堂過去霊名簿』、『徳川諸家系譜』2

檀栄母、逝去

 11月25日、祐天寺第4世住職檀栄の母が逝去しました。磐城の新妻政明(元文5年「祐天寺」参照)の次女として生まれ、岡田五郎右衛門に嫁しました。檀栄はその3男でした。

参考文献
『本堂過去霊名簿』、『寺録撮要』1

寺院

嵯峨清涼寺の釈迦像、開帳

 嵯峨清涼寺の釈迦如来像(元禄13年「寺院」参照)が8月8日から50日間、開帳されました。この釈迦如来像は、寛和元年(985)に東大寺の僧大周然が宋へ渡った際、模刻し持ち帰ったものです。もとはインドから渡来したものと言われ、宋では生身釈迦仏として人々の信仰を集めていました。
 インド・中国・日本と渡ってきた三国伝来の霊像であり「生身の如来」ということで宗派を問わず信仰を集め、開帳の際は大変賑わったそうです。


高幡不動、開帳<\h4>
 3月に高幡金剛寺の不動明王像が、京の愛宕神社で開帳されました。この不動明王像は弘法大師の作と伝えられています。

参考文献
『国史大辞典』、『武江年表』1、『浄土宗大年表』

風俗

江戸湯島の物産会

 物産会とは、各地の珍しい産物や動植物、鉱物などを展示し、その品物や品物についての情報などを交換する会のことです。薬品が多かったので、薬品会・本草会とも呼ばれました。9月に湯島で開かれた「東都薬品会」は日本初の物産会であると言われ、このときには合計約180種が出品され、20人が参加しました。本草学者の田村藍水が主催しましたが、発案したのはその門人の平賀源内(「人物」参照)です。朝鮮人参や甲州産の甘草など100種近くを主催者の藍水が出品し、ほかの参加者の出品数はそれぞれ1、2種類程度だったそうですが、知識の交流とともに一般の人々が学問に興味を抱くためのきっかけともなり、本草学・博物学の進歩、新たなる発明・発見に大いに役立ちました。物産会は翌8年(1758)にも神田で開催され、回を重ねるたびに規模が大きくなっていったのです。


仙台藩の宝暦の転法

 仙台藩では、伊達政宗の代の寛永年間(1624~1643)から、買米仕法という政策が採られていました。これは、農民が作った米を藩が安めに買い取り、それを江戸の市場で売りさばいて利益を得るもので、地方市場に比べて江戸市場の物価が割高であったことを利用していました。一時は、仙台藩から送られてくる米の量が江戸での米価を左右するほどで、享保17年(1732)の虫害飢饉(享保17年「事件・風俗」参照)の際には米価が高騰し、50万両(約300億円)もの利益を上げたと言われています。しかし、宝暦5年(1755)に東北地方を襲った冷害により大凶作に見舞われ、仙台藩は米を買い上げることができなくなりました。やがて財政難となったために行われた財政改革が「宝暦の転法」と呼ばれました。それまでは、前渡し金として春に米の代金が支払われ、収穫後に強制的に買い上げられていましたが、多額の前渡し金を払うことができなくなった藩は、収穫後に代金と引き換えで米を買い付ける現金買へと政策を変えたのです。しかし、この方法では思うように米を買い上げることができず、ますます仙台藩の財政は苦しくなっていきました。

参考文献
『国史大辞典』、『大江戸万華鏡』(組本社編、農山漁村文化協会、1991年、『江戸編年事典』

出版

『冠辞考』

 賀茂真淵(延享3年「人物」参照)著。真淵は早くから枕詞に興味を持っていたようで、長い年月にわたる研究の成果として『冠辞考』は書かれました。単に枕詞の解釈にとどまらず、古歌の解釈や古道思想についても真淵独自の考察を加えたものでした。そのため枕詞の研究のみならず国学にも影響を与えました。
 また、初版が刊行されたのは宝暦7年ですが、いく度となく改訂を行っており、真淵の一生をかけた書と言えます。

参考文献
『賀茂真淵全集』8(久松潜一、続群書類従完成会、1978年)、『日本古典文学大辞典』、『歌舞伎事典』、「演劇目録と上演年表」(中山幹雄、『江東史談』214号、1985年)

芸能

『祇園祭礼信仰記』初演

 中邑阿契、豊竹応律、黒蔵主、三津飲子、浅田一鳥ら5人の合作による人形浄瑠璃『祇園祭礼信仰記』が12月から大坂豊竹座で初演されました。好評で、宝暦9年(1759)2月まで続演されました。4段目「金閣寺」の段では金閣寺のセリ上げ・セリ下げや、此下東吉(豊臣秀吉の若いときの名前である木下藤吉郎をもじっている)の人形を京の高台寺にある秀吉像に似せて作ったことが評判となりました。ヒロインの雪姫は歌舞伎でも演じられるようになってからは三姫(ほかに八重垣姫、時姫)の1つとされ、女方の大役になっています。


『国両累文談』初演

 7月、京の染松座において累物の歌舞伎『国両累文談』が初演されました。
 内容は不明です。

参考文献
『賀茂真淵全集』8(久松潜一、続群書類従完成会、1978年)、『日本古典文学大辞典』、『歌舞伎事典』、「演劇目録と上演年表」(中山幹雄、『江東史談』214号、1985年)

人物

平賀源内 享保13年(1728)~安永8年(1780)

 本草学者、物産学者、戯作者、浄瑠璃作者と、多才多芸にして江戸の奇人と称された平賀源内は、讃岐国(香川県)高松藩の蔵番である白石茂左衛門良房の子として生まれました。名は国倫、通称として源内もしくは元内と言います。号は鳩渓と言いましたが、戯作者としては風来山人、浄瑠璃作者としては福内鬼外という筆名を使っていました。
 12歳の頃、源内は「おみき天神」というからくりを作ったとの言い伝えがあります。これは、軸物に仕立てた天神の絵に仕掛けを施し、糸を引くと赤い紙が天神の顔の部分に来るようにしたもので、軸の前にお神酒を供えた際に隙を見て糸を引き、赤味がさした天神の顔を指して「天神さまがお神酒を飲んで酔っぱらった」となるわけです。からくり好きな源内らしいいたずらと言えるでしょう。源内は、そのほか本草学、儒学なども師について学び、旺盛な好奇心を満たしていました。
 寛延2年(1749)に父が死去したため、源内は跡を継いで高松藩に仕えました。しかし、宝暦2年(1752)から1年間の長崎遊学中にさまざまな刺激を受けた源内は、自分の知識が「井の中の蛙」でしかないことを痛感してますます向学心を強め、帰国後の宝暦4年(1754)に病気を理由に退役してしまいます。同時に従兄弟を妹婿として迎えて家督を譲ると、源内は高松を出て大坂で医学と本草学を、さらに江戸に出て本草学と儒学を学びました。この間、源内発案による日本で初めての物産会が開催され(「事件・風俗」参照)、やがて規模が拡大していきます。それを見た高松藩は、源内を薬坊主格に任命して藩内での薬種採集などを行わせますが、やはり源内は藩に仕えることの不自由さに嫌気がさし、再び退役を願い出るのです。藩は有能な人材である源内を手放すことを惜しみましたが、他藩への出仕を禁止したうえでようやく離藩を許可しました。それからというもの源内は、伊豆で芒硝(天然の硫酸ナトリウム)を発見して幕府から芒硝御用を命じられたり、秩父で発見した石綿から火浣布という耐火織物を作って幕府に献上したり、さらには陶器の海外輸出の計画、毛織物製造への着手、秩父で鉄山の開削といったさまざまな事業を試みていきます。しかし、これらの豊かな発想は当時のほとんどの人々にはあまりにも突飛すぎて、「山師」扱いを受けていたというのが現実でした。
 一方で源内は、若い頃から俳諧に親しみ文芸書を読みふけってきた文人としての才能も発揮して、宝暦13年(1763)に『根南志具佐』と『風流志道軒伝』を刊行します。これはかなり好評で、文学史上でも本格的な滑稽本の始まりとして高い評価を受けました。源内が本業とする物産の開発はあまり奮わなかったものの、文筆業においては浄瑠璃『神霊矢口渡』や狂文『放屁論』など次々と新作を発表し、世相に対しての風刺を込めた独自の文学を形成していったのです。あるいはこの乱作は、生活費の足しとする目的もあったのでしょう。さまざまな事業に手を出しながらもそれらは失敗に終わることが多く、源内は赤字を埋めるのに苦労していたそうです。
 源内の名を一躍有名にしたエレキテル(「解説」参照)の復元により、源内の生活はかなり楽になりますが、今度はエレキテルを偽造され、それが失敗作であったために源内自身も良からぬ噂をされるようになってしまいます。豪傑で快活な人物と言われる源内ですが、内心は案外神経質で短気なところもあり、こういった噂をかなり気にしていたようです。その性格が災いしたのか、源内は安永8年(1779)に誤って人を殺してしまいました。理由は定かでありませんが一説に、源内がある重要な書類を盗まれたと勘違いしたためとも言われています。この書類はのちに源内宅で発見され、自分の早とちりだと知った源内は自殺を企てますが、弟子に止められました。やがて源内は捕縛され、獄中で破傷風にかかって病死してしまうのでした。友人の杉田玄白による墓碑銘にあるとおり、源内はまさに「非常の人」で、「非常の事を好」んで「非常の死」を遂げたのです。

参考文献
『国史大辞典』、『朝日日本歴史人物事典』、『平賀源内』
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