明顕山 祐天寺

年表

宝暦06年(1756年)

祐天上人

土佐玉仙院、檀家に

 玉仙院(延享元年「祐天寺」参照)はかねて祐天寺に帰依していましたが、4月、土佐山内(松平)家より使者が来て、いよいよ菩提所青松寺へも連絡して改宗することにしたので師檀関係を結びたい旨の申し入れがありました。念のため芝青松寺へ役僧の祐全を使者に立てて問い合わせたところ、本来は容易でないことだが、土佐山内家から申し入れがあったので許可したとのことでした。秋には、玉仙院殿天蓮社法誉至心香曜大法尼と逆修の法号をお付けしました。

参考文献
『寺録撮要』2

祐達、遷化

 8月20日、目白大泉寺第7世の祐達が遷化しました。祐達は祐海の直弟で永く大泉寺に住し、祐泉、祐堪、智順、祐源などの弟子を育てました。法号は根蓮社元誉上人唱阿祐達和尚です。

参考文献
『本堂過去霊名簿』、『寺録撮要』1

田安家修姫の母、逝去

 田安宗武の側室で、修姫の母が逝去しました。真了院法含恵隆大姉の法号が『本堂過去霊名簿』に見え、信者であったと思われます。修姫は成人ののち酒井左衛門尉忠徳に嫁ぎました(寛政8年「祐天寺」参照)。

参考文献
『本堂過去霊名簿』、『田安徳川家記系譜』(『徳川諸家系譜』3)

説明

田安家と祐天寺

田安家は吉宗の第2子である田安宗武が享保16年(1731)に興した家です。宗武の母は於古牟の方であり、吉宗が祐天上人に蓮糸の袈裟を寄進したときに自らそれを手縫いした方です。
また、宗武の正室である森姫は近衛家久の娘ですが、家久は近衛家煕の子息であり、当時まだ勢力を持っていた6代将軍家宣の未亡人である天英院の、甥にあたります。そちらからの影響もあったのか、田安家奥には祐天寺への信仰が広く浸透していたようです。 森姫は落飾ののち法蓮院と号しました(『本堂過去霊名簿』では宝蓮院)。

田安家の奥女中である梅沢、広津、山路などはいずれもその親族など多くの人物の法号を祐天寺に納め、その施主となっており、自らも祐天寺に葬られています。法号はそれぞれ、梅沢が秀香院殿薫誉浄因大姉、広津が信受院行誉智栄大姉、山路が究竟院浄誉香岸大姉です。
宗武の娘である淑姫は信濃守鍋島(松平)重茂に嫁ぎ、重茂卒去ののちは円諦院と号しました。文化12年(1815)9月26日(『本堂過去霊名簿』では20日)に逝去しましたが、円諦院の法号が祐天寺過去帳に納められています。円諦院殿本誉祐和貞穏大姉です(鍋島氏に関しては文政12年「説明」参照)。

参考文献
『本堂過去霊名簿』、『寛政重修諸家譜』

寺院

尊峰法親王、関東下向

 2月、知恩院門跡の尊峰法親王が江戸へ下向されました。江戸では天徳寺に滞在され、家重の饗応を受けました。また、9月に家治息女の誕生を祝した贈り物などをしています。


大玄、遷化

 8月4日、増上寺第45世住職だった大玄(宝暦3年「寺院」参照)が遷化しました。法号は速蓮社大僧正成誉大玄大和尚です。大玄は下野国(栃木県)で黒羽長松院俊能について出家したのち、飯沼弘経寺で祐天上人に師事し、宝永元年(1704)に宗戒両脈を受けました。京、奈良にも遊学した学僧で、戒に関する著作が多くあります。


定月、増上寺住職に

 8月に遷化した大玄に代わり、9月に伝通院住職定月が増上寺第46世となりました。定月は幼い頃から利発で、若くして増上寺学寮で講義を行えるほどの大法器だったと伝えられています。


百萬遍知恩寺で御影堂改築

 京の百萬遍知恩寺で、御影堂の改築が終了しました。最奥に法然上人開宗当時の坐像真影を安置した御影堂は寛文元年(1661)に火事で焼け、修繕そのものは延宝7年(1679)に落慶していましたが(延宝7年「寺院」参照)、当時の住職満霊はまだ寺観の整備が不十分であるとして、さらなる復旧を後世に託したのです。春に御影堂は完成し、冬に入仏供養が執り行われました。

参考文献
『本堂過去霊名簿』、『百萬遍知恩寺誌要』(『浄土宗全書』20)、『縁山志』10(『浄土宗全書』19)、『浄土宗大年表』

事件

五社騒動

 11月に阿波国(徳島県)徳島藩の北方4郡で起こった強訴騒動は、未遂に終わったものの、村役人から小農民までがいっせいに蜂起した一揆として、藩に大変な衝撃を与えた事件です。事の起こりは名西郡・麻植郡・名東郡・板野郡に、藍作税の苛酷さを訴えようと呼び掛ける廻文が流されたことに始まります。この4郡は阿波藍(「解説」参照)の産地の中心地ですが、享保18年(1733)に新たに設けられた「藍作四歩懸り」の税に加え、宝暦4年(1754)には藍玉株制度を設定して株を持たない者の藍作が禁じられるようになり、藍作農民の生活は非常に苦しいものになっていたのです。「藍作四歩懸り」の税とは、売り方に2歩(2パーセント)、買い方にも2歩の税を掛けるというものですが、葉藍の仲買人は最初からこの税を見越して買値を付けるようになったために、藍作人には実質4歩の負担が掛かりました。
 廻文は各郡の村々の寺を中継としていましたが、農民の動向を恐れた寺がひそかに廻文の写しを藩に届け出たため、藩が首謀者の調査に乗り出しました。その結果、名西郡高原村の五人組常右衛門ほか5人が指導者として捕縛され、磔の刑に処されたのです。処刑の日、彼ら5人は集まった藍作人たちを前に、きっと自分たちの願いが聞き届けられる日が来ると切々と語ったそうです。そののち藩は、困窮している農民の売れ残った葉藍1万俵を買い上げて救済にあたり、さらに藍作税や藍玉株制度を廃止するなど、常右衛門たちの呼び掛けに応えるような政策を実行していきました。農民たちはこの常右衛門ほか5人を五社大明神として祀り、この五社神社は他国の藍作関係者にまで深く信仰されたのです。

参考文献
『国史大辞典』、『江戸幕閣人物100話』(萩原裕雄、立風書房、1992年)、『江戸時代人づくり風土記36徳島』(組本社編、農文協、1996年)

風俗

大岡忠光、側用人に

 家重の不明瞭な言語をただ1人理解したという大岡忠光は、家重に深く寵愛されました。もとは300石取りの旗本でしたが、享保9年(1724)、16歳のときに家重附きの小姓となり、家重が正式に将軍家を継ぐことになってからは着実に昇進を重ねていきました。名奉行と言われた大岡忠相(享保2年「人物」参照)とは親戚関係にあり、直接政治の心得などの指南を受けたという忠光の才能は、吉宗も大いに期待していたそうです。5月、側用人(元禄9年「解説」参照)に昇任した忠光は、同時に従四位下に叙任され、さらに武蔵国(埼玉県)岩槻城主となって2万石の領地を与えられました。
 忠光以外には家重の言葉や心情を理解する者がいなかったため、忠光は老中などからも家重の通訳として頼りにされていたそうです。忠光なくしては政治さえ立ち行かなくなってしまうありさまでしたが、これに忠光は慢心することなく、老中らと協力し合って幕政を行いました。しかし、吉宗が採った能力主義に基づく人材登用を奨励したため忠光の邸には仕官を求める武士たちが集まり、ときには賄賂が送られていました。忠光はこれを拒むこともしなかったため、「官職斡旋の問屋」と言われたそうです。この風潮はのちに、賄賂が横行する幕閣を築くもととなるのでした。

参考文献
『国史大辞典』、『江戸幕閣人物100話』(萩原裕雄、立風書房、1992年)、『江戸時代人づくり風土記36徳島』(組本社編、農文協、1996年)

芸能

『珍敷江南橘』初演

 8月、並木良輔作の歌舞伎『珍敷江南橘』が江戸森田座で初演されました。累物の1つで、市村羽左衛門が出演しました。このときから、すでに提灯抜け(提灯から役者が抜けて舞台に出てくるからくり。怪談ものなどで使われる)が工夫されていたということです。

参考文献
「演劇目録と上演年表」(中山幹雄、『江東史談』214号、1985年)、「『累女』に就いて」2(大友宗運、『国語国文の研究』48号、京大国文学会、1930年9月)

人物

細川重賢 享保5年(1720)~天明5年(1785)

 細川重賢は、熊本藩4代藩主の細川宣紀の5男として、江戸で生まれます。幼名を紀雄、のちに民部、また主馬と改めました。
 熊本藩は54万石もの大藩で、本来であれば財政難に陥ることはありません。また藩政初期には、天守銀と呼ばれる非常準備銀が20万両(約120億円)もあったのです。しかし、正徳2年(1712)には多くの借金を抱えるようになり、なかでも幕府からの借金は37万両(約222億円)にもなっていました。他藩に準じて熊本藩も藩札(寛文元年「解説」参照)の発行により事態を切り抜けようとしましたが、かえって藩内の混乱を招き、ついには参勤交代の費用にも事欠くありさまでした。
 このような藩財政の中で重賢は、青年時代に大変貧しい部屋住みの生活を経験します。江戸田町の別邸で水浴するたびに、重賢は濡れたふんどしが乾くのを待たなければならなかったという話や、蚊が入ってくるのに困り果て、重賢自らが蚊帳の破れを針と糸で繕ったという話などが、生活の貧しさを物語っています。いくら財政難とは言っても藩主の息子にこれほどの苦労は想像できないようですが、重賢は5男なので今後藩政に携わることもない身分です。また、父の宣紀を13歳で亡くし、母も23歳で亡くした重賢の面倒を見てくれる者などいなかったのです。
 しかし、そんな重賢に転機が訪れます。延享4年(1747)、5代藩主となっていた兄の宗孝が、江戸城内で狂気した旗本の板倉勝該に斬り付けられ命を落としたのです(延享4年「事件・風俗」参照)。このときすでに重賢の兄3人は早世していたので急遽、重賢が6代藩主となりました。
 37歳で藩主となった重賢は部屋住みの経験を生かし、藩政改革に着手します。宝暦改革(宝暦2年「事件・風俗」参照)です。寛延元年(1748)の初入国では、財政再建のために中級藩士の中から堀平太左衛門勝名を抜擢して改革にあたらせました。重賢の人を見る目は確かなもので、平太左衛門は徹底的な倹約に努め、また新しい刑法を作成するなど、その活躍は大変なものでした。
 ところが、平太左衛門の抜擢にあたっては老臣たちの反発を受けました。重賢以前の熊本藩には、藩主と同じくらいの勢力を持った老臣たちがおり、自分たちを差し置いて中級藩士が抜擢されるなど考えられないことだったのでしょう。恨みに思った家臣の1人が重賢と平太左衛門に呪いをかけるという事件も起こりましたが、やがて熊本藩の財政は立ち直り、重賢の改革はおおむね成功したと言えます。
 また、重賢は非常に勉強家で、江戸では『詩経』や『漢書』の研究会を開いたり、熊本では藩校の時習館の講義に参加するなどして、藩内に学問を奨励しました。なかでも博物学への関心は強く、魚・貝・獣の写生帳である『毛介綺煥』や、植物の写生帳である『百卉侔状』などの博物図鑑も作っています。
 重賢の改革の成功は周辺の諸藩にも知られ、特に時習館や医学寮の再春館には多くの見学者が訪れたそうです。天明5年10月22日、「肥後の鳳凰」とまで讃えられた重賢は66歳でこの世を去りました。

参考文献
『類聚傳記大日本史』3―大名篇(渡辺世祐、雄山閣、1934年)、『国史大辞典』、『朝日日本歴史人物事典』、『日本全史』(宇野俊一ほか、講談社、1991年)
TOP