玉仙院(延享元年「祐天寺」参照)はかねて祐天寺に帰依していましたが、4月、土佐山内(松平)家より使者が来て、いよいよ菩提所青松寺へも連絡して改宗することにしたので師檀関係を結びたい旨の申し入れがありました。念のため芝青松寺へ役僧の祐全を使者に立てて問い合わせたところ、本来は容易でないことだが、土佐山内家から申し入れがあったので許可したとのことでした。秋には、玉仙院殿天蓮社法誉至心香曜大法尼と逆修の法号をお付けしました。
8月20日、目白大泉寺第7世の祐達が遷化しました。祐達は祐海の直弟で永く大泉寺に住し、祐泉、祐堪、智順、祐源などの弟子を育てました。法号は根蓮社元誉上人唱阿祐達和尚です。
田安宗武の側室で、修姫の母が逝去しました。真了院法含恵隆大姉の法号が『本堂過去霊名簿』に見え、信者であったと思われます。修姫は成人ののち酒井左衛門尉忠徳に嫁ぎました。
田安家は吉宗の第2子である田安宗武が享保16年(1731)に興した家です。宗武の母は於古牟の方であり、吉宗が祐天上人に蓮糸の袈裟を寄進したときに自らそれを手縫いした方です。
また、宗武の正室である森姫は近衛家久の娘ですが、家久は近衛家煕の子息であり、当時まだ勢力を持っていた6代将軍家宣の未亡人である天英院の、甥にあたります。そちらからの影響もあったのか、田安家奥には祐天寺への信仰が広く浸透していたようです。 森姫は落飾ののち法蓮院と号しました(『本堂過去霊名簿』では宝蓮院)。
田安家の奥女中である梅沢、広津、山路などはいずれもその親族など多くの人物の法号を祐天寺に納め、その施主となっており、自らも祐天寺に葬られています。法号はそれぞれ、梅沢が秀香院殿薫誉浄因大姉、広津が信受院行誉智栄大姉、山路が究竟院浄誉香岸大姉です。
宗武の娘である淑姫は信濃守鍋島(松平)重茂に嫁ぎ、重茂卒去ののちは円諦院と号しました。文化12年(1815)9月26日(『本堂過去霊名簿』では20日)に逝去しましたが、円諦院の法号が祐天寺に納められています。円諦院殿本誉祐和貞穏大姉です。
8月4日、増上寺第45世住職だった大玄(宝暦3年「寺院」参照)が遷化しました。
法号は速蓮社大僧正成誉大玄大和尚です。
大玄は下野国(栃木県)で黒羽長松院俊能について出家したのち、飯沼弘経寺で祐天上人に師事し、宝永元年(1704)に宗戒両脈を受けました。京、奈良にも遊学した学僧で、戒に関する著作が多くあります。
8月に遷化した大玄に代わり、9月に伝通院住職定月が増上寺第46世となりました。定月は幼い頃から利発で、若くして増上寺学寮で講義を行えるほどの大法器だったと伝えられています。