明顕山 祐天寺

年表

宝暦5年(1755年)

祐天寺

義海、遷化

正月10日、新田大光院住職の義海が遷化しました。宗義や仏像に詳しく、江戸中期の浄土宗の代表的学僧です。祐海著『威儀略述』(宝暦4年「出版・芸能」参照)を校合した人物です。
法号は騰蓮社空誉上人冲黙義海大和尚です。

参考文献
『本堂過去霊名簿』、『浄土宗大辞典』

千部読経

9月、寺社奉行月番の青山因幡守へ千部執行の願書を差し出したところ、27日に寄合の場へ召され、千部執行に関しては子年〔宝暦6年(1756)〕より酉年〔明和2年(1765)〕までの10年間は願いを許すとの仰せ渡しがありました。即日に寺社奉行全員にお礼回りをし、増上寺役所へ届けました(宝暦2年「祐天寺」参照)。

参考文献
『寺録撮要』3

説明

黒田家と祐天寺③

黒田甲斐守
黒田甲斐守の家は黒田筑前守の分家です。秋月藩4代藩主の長貞は宗家の家臣野村祐春の子で、長軌の末期養子となりました。その実母は宗家の下臣黒田三左衛門一貫の娘です。実母の法号が『本堂過去霊名簿』に、養眞院殿松屋宗秀大姉〔享保16年(1731)没〕とあります。長貞自身は宝暦4年(1754)に没し、祐天寺に興願院殿前甲州刺吏耀誉祐歓大居士という法号が納められています。

跡を継いだのが嫡男長邦でした。宝暦12年(1762)没しました。祐天寺に興徳院殿前甲州刺吏一峯宗関大居士という法号が納められています。

長邦室は、筑前守継高の娘ですが、宝暦8年(1758)に没し、法号は玉津院殿天質妙香大姉です。
長邦の跡を継いだのが嫡男長恵でした。母は長邦正室です。尾張、美濃、伊勢の川普請を助けた功により時服10をたまわりました。しかし、安永3年(1774)に長恵は21歳で没してしまいました。法号は岱源院殿前甲州刺吏亮応宗淳大居士です。

長恵臨終のときに山崎主悦助義俊の次男で、母が長邦の娘である長堅を養子に迎えました。長堅6歳のときでした。天明5年(1785)に長堅は16歳になりましたが、重病ののち歩行できない身となっていました。家を継ぐ者をほかに選ぶことになり、長堅は退身して同年に没しました。法号は霊雲院殿明誉光嶽道照大居士。長堅は地蔵菩薩像も建立しています。

跡を継いだのは秋月佐渡守種頴の次男、長舒でした。長舒の法号は『本堂過去霊名簿』に見つかりませんが、その継室である土佐守山内(松平)豊雍の娘は、祐天寺の熱心な信者の家の出身であり、自らも信者となりました(宝暦8年「説明」参照)。法号は慈明院殿普光清陰大姉です。

参考文献
『寛政重修諸家譜』、『本堂過去霊名簿』
TOP