明顕山 祐天寺

年表

宝暦04年(1754年)

祐天上人

天英院お附き秀小路、逝去

 天英院お附きだった老女の秀小路(享保13年「説明」参照)が逝去しました。天英院が祐天寺に鐘楼を寄進したときには、代参して釣鐘を撞く(享保14年「祐天寺」参照)など、祐天寺とは浅からぬ関係がありました。法号は瑞応院殿現誉紫光妙相大姉です。

参考文献
『本堂過去霊名簿』

檀栄父、逝去

 12月16日、前年(宝暦3年)に遷化した祐天寺第4世檀栄の父である磐城の岡田五郎右衛門が没しました。法号は明誉摂光信士です。

参考文献
『寺録撮要』1、『本堂過去霊名簿』

寺院

順真、知恩院住職に

 10月、鎌倉光明寺住職の順真が知恩院第53世住職となりました。順真の在住中には法然上人の550回忌勅会が執行されています。

参考文献
『知恩院史』(藪内彦瑞編、知恩院、1937年)

事件

久留米藩大一揆

 3月、筑後国(福岡県)久留米藩において、新しく設けられた人別銀という税の徴収に反対する農民たちが一斉蜂起しました。ほかの藩と同じように財政難に悩んでいた久留米藩は参勤交代の費用にも事欠くありさまで、これまでも検地を徹底して年貢を増税したり、大豆や麦などの収穫に掛ける「夏成」という税の増徴などを行ってきましたが、ここ1、2年の米価の下落により藩の収入が落ち込み、新税の設置という政策に踏み切ったのです。しかし、洪水や干ばつなどで不作の続いた農村の生活は、日々の食べ物にも困るところまで追い詰められていました。
 お宮参りを装って集まった農民たちは近隣の村々へも決起を呼び掛け、これに応じない村に対しては脅しをかけて参加を促し、ついには生葉・竹野・山本の3群の農民、合わせて2万人以上が筑後川の八幡河原へ結集しました。その後も御井・御原など他郡の農民が合流していき、最終的には17万人近くもの農民たちによる大一揆へと発展しました。打ち壊しなども起こるようになると、藩もやむなく人別銀の廃止や年貢の減免を約束しました。しかし、騒動が収束すると、藩は一揆の参加者を捕らえて拷問にかけ、厳しい詮議の結果、150人にのぼる者がさらし首や刎ね首などの刑に処されたのでした。

参考文献
『日本史小百科 暦』(広瀬秀雄、近藤出版社、1978年)、『解剖事始め』(岡本喬、同成社、1988年)、『江戸時代人づくり風土記26京都』(組本社編、農文協、1988年)、『江戸時代人づくり風土記40福岡』(組本社編、農文協、1988年)

風俗

解剖の始まり

 閏2月7日、京の六角獄舎(現在の京都府中京区六角大宮西辺り)において、打ち首となった囚人の遺体の解剖が行われました。遺体は、屈嘉というあだ名を持つ詐欺脅迫の罪を重ねてきた囚人で、屠者により解剖されました。それを見守ったのが山脇東洋(「人物」参照)、原松庵、小杉玄適、伊藤友信、浅沼佐盈の5人です。佐盈が、開かれていく人体や内臓を書き写していきました。次々にあらわになっていく人体の内部を東洋は、肋骨は「屋根の垂木のようだ」と言い、心臓は「未開の紅蓮」、肺は「紫錦嚢(紫地の錦の袋)」と形容しています。解剖から1か月後、東洋は屈嘉の慰霊祭を盛大に行い、「利剣夢覚信士」という戒名をおくりました。これが、現在各大学の医学部で行われている解剖体慰霊祭の発端とされています。このときの解剖の記録は『蔵志』という書にまとめられて、宝暦9年(1759)に発行されました。
 当時は死体を解剖することは死者を冒涜する行為だとして、宗教・道徳的な立場から禁止されていました。玄適らが若狭国(福井県)小浜藩の藩医であり、その藩主の酒井忠用が京都所司代(「解説」参照)に就任したこと、また東洋も古医学者としての地位を確立した朝廷の医者であったことなどが幸いし所司代からは解剖の許可を得ていたものの、解剖への厳しい非難は避けられませんでした。しかし、東洋らはそのときの解剖の経験を励みに、さらに精密な解剖を重ね、近代医学への歩みを進めていくこととなるのです。


宝暦暦の採用

 当時使用されていた貞享暦(貞享2年「風俗」参照)は誤りが多いとして、将軍吉宗の強い意向により進められていた改暦作業が終了し、翌宝暦5年(1755)から新暦を採用するとのお触れが出されました。新暦は「宝暦甲戌元暦」と名付けられ、一般には宝暦暦と呼ばれます。しかし、宝暦暦は貞享暦と大差はなく、吉宗の実学好きが高じて行われた事業であるとも言えます。
 改暦にあたっては、その権限を担っていた土御門家(延享元年「解説」参照)の泰邦と、天文方の西川正休・渋川六蔵との間に意見の対立がありました。前回の貞享改暦の際には改暦の実権を幕府に奪われていた土御門家にとって、今回の改暦は権限の奪回という点で大きな意味があったのです。吉宗の薨去後、泰邦の策により正休が失脚させられると、土御門家の指導のもとに改暦を行うということになりました。でき上がった宝暦暦は、寛政9年(1797)まで使われました。

参考文献
『日本史小百科 暦』(広瀬秀雄、近藤出版社、1978年)、『解剖事始め』(岡本喬、同成社、1988年)、『江戸時代人づくり風土記26京都』(組本社編、農文協、1988年)、『江戸時代人づくり風土記40福岡』(組本社編、農文協、1988年)

出版

『威儀略述』刊行

 11月、祐海著の『威儀略述』(享保19年「祐天寺」参照)が刊行されました。行いの規範について書いた書で、例えば燈火を口で吹き消してはならないと述べたあとで、それは火を慕って集まっていた虫が人の息で損じられるといけないからだと『珠林』という書に記述があると紹介されています。祐海の広い知識が察せられる書です。

参考文献
『仏書解説大辞典』(小野玄妙編、大東出版社、1981年)、『威儀略述』(宝暦4年版本、祐天寺蔵)

人物

山脇東洋 宝永2年(1705)~宝暦12年(1762)

 山脇東洋は、日本で初めて人体解剖(「事件・風俗」参照)を行った人物です。京の町医者である清水立安の長男として生まれました。本名を尚徳、通称を道作と言います。母はとても教育熱心で、3年後に生まれた弟の敬長とともに厳しく教育されました。階上で勉強している間は階段をはずしてしまい、決められた学習時間内に階下に降りてくることを許さなかったそうです。東洋は母の期待に応え、7歳で儒学者の渡辺葭村について書経を学び、13歳のときには漢文を書きこなしていました。しかし、享保7年(1722)の東洋18歳のとき、父の立安が病死してしまいました。早くから東洋の秀才ぶりを認めていた山脇玄修は、このときに東洋を養子に求めたと言われています。山脇玄修は古医学で名を知られた医者で、父の立安は丹波国(京都府)亀山の出身ですが、京に出て山脇玄修の門人となっていました。享保11年(1726)に東洋は玄修の養子となり、翌享保12年(1727)に玄修が死去したため山脇家を継いだのです。東洋23歳のときでした。
 山脇家の先祖は楠正成の庶流と言われます。東洋の祖父にあたる玄心は曲直瀬玄朔の弟子で朝廷の侍医となり、法印(延享2年「解説」参照)の位と「養寿院」の院号までたまわった名医でした。その甥であり、のちに嗣子となった玄修もまた、宮中で厚く信頼された侍医で、法眼の位をいただいています。享保13年(1728)に跡目相続のお礼として将軍吉宗に拝謁した東洋は、翌14年(1729)に25歳で法橋の位を与えられ、「養寿院」の号を継ぎました。この間、東洋は後藤艮山の門人にもなっていました。艮山は事実をもって証明することを重んじる古医学の大成者であり、艮山に学んだことによって人体解剖の敢行に踏み切ることができたと、東洋はのちに語っています。
 享保15年(1730)に清水延子と結婚し2男1女をもうけ、中御門天皇の侍医にもなった東洋は、幸せな家庭を築きつつあるかのように見えました。しかし、寛保2年(1742)に延子に先立たれてからは、相次ぐ子供の早世と後添いとの不和、そして敬愛していた弟の敬長の病死と、受難の日々が続きます。しかし、これを跳ね返すように、東洋は中国の医学書『外台秘要』40巻の翻刻にいそしみ、延享2年(1745)にはその刊行にこぎ付けました。また宝暦4年には、京都所司代(「解説」参照)の酒井忠用の許可を得て六角獄舎でのわが国初の死体解剖、宝暦9年(1759)にはその記録である『蔵志』の刊行という業績を残し、東洋の名を今なお知らしめることとなったのです。
 『蔵志』には欠陥も多くありましたが、わが国初の解剖図誌として高く評価されています。解剖については賛否両論ありましたが、東洋はむしろ反対論に奮い立ち、こののちも13人もの人体解剖を行いました。東洋の墓がある京の誓願寺には、合わせて14人の戒名が刻まれた解剖供養碑が建っています。東洋は初めて人体解剖を行っただけでなく、解剖体慰霊祭を初めて行った人物でもあるのです。

参考文献
『江戸時代人づくり風土記26 京都』、『朝日日本歴史人物事典』、『国史大辞典』、『解剖事始め』
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