天英院お附きだった老女の秀小路(享保13年「説明」参照)が逝去しました。天英院が祐天寺に鐘楼を寄進したときには、代参して釣鐘を撞く(享保14年「祐天寺」参照)など、祐天寺とは浅からぬ関係がありました。法号は瑞応院殿現誉紫光妙相大姉です。
12月16日、前年(宝暦3年)に遷化した祐天寺第4世檀栄の父である磐城の岡田五郎右衛門が没しました。
法号は明誉摂光信士です。
黒田肥前守、黒田筑前守
福岡藩5代藩主の黒田肥前守宣政〔貞享2年(1685)~延享元年(1744)〕は初め守山を称していましたが、のち改めて黒田姓となった人物です。漂流してきた唐船を追い払うなどの功があった人物です。その正室の法号が『本堂過去例名簿』にあります。元文5年(1740)没の瑞嶺院殿香雲妙薫大姉で、南部信濃守行信の娘です(享和3年「説明」参照)。
宣政の養子となったのが実は甥にあたる筑前守継高〔元禄13年(1700)~安永4年(1775)〕で、やはり唐船を打ち払うなどの功を立てました。『本堂過去霊名簿』には功崇院殿羽林大将筑州太守章山道全大居士という法号が見えます。継高の娘で黒田甲斐守長邦の室となった女子〔法号は玉津院殿天質妙香大姉、宝暦8年(1758)没〕、南部信濃守利謹室となった女子〔法号は円明院殿心月宗鏡大姉、享和3年(1803)没〕、そして嫡男の重政〔享保19年(1734)~宝暦12年(1762)〕も『本堂過去霊名簿』に瑛光院殿四品前匠作大尹瑞嶽紹鳳大居士の法号が見えます。
重政が29歳で子をもうけずに没したので、後継者は弟の治之でした。治之は実は徳川宗尹の5男で、継高の養子となったのでした。天明元年(1781)30歳で没した治之の法号は、鳳陽院殿四品前州太守典山紹靖大居士です。
次に跡を継いだ治高は京極出羽守高慶の子でした。治之が危篤になったので急遽養子となり、遺領を継ぎました。しかし天明2年(1782)にやはり29歳の若さで没してしまうのでした。
その跡を継いだのが斎隆です。斎隆は一橋中納言治濟の次男でしたが、治高臨終において養子となりました(末期養子)。斎隆は重政以降の黒田家当主らの法号を祐天寺に納め、位牌を建立します。しかし寛政7年(1795)にやはり19歳の若さで没してしまいました。斎隆の跡は当時1歳であった嫡男長順が継ぎました。
11月、祐海著の『威儀略述』(享保19年「祐天寺」参照)が刊行されました。行いの規範について書いた書で、例えば燈火を口で吹き消してはならないと述べたあとで、それは火を慕って集まっていた虫が人の息で損じられるといけないからだと『珠林』という書に記述があると紹介されています。祐海の広い知識が察せられる書です。