明顕山 祐天寺

年表

宝暦03年(1753年)

祐天上人

祐海再住

 2月30日、祐天寺第4世住職檀栄(宝暦2年「祐天寺」参照)が遷化しました。前年の宝暦2年(1752)に祐益の跡を継いで住職となったばかりの檀栄でしたが、その遷化により第5世住職には70歳の隠居祐海が再住することになりました。

参考文献
『寺録撮要』1、『祐天寺二世祐海上人和字略伝』

霖霓、遷化

 3月15日、祐天上人の最も早い伝記の1つと見られる『祐天寺開山大僧正実録』(享保6年「祐天寺」参照)の記者である霖霓が遷化しました。法号は含蓮社懐誉上人仁阿臨(霖)霓和尚です。濃州(岐阜県)岩村乗政寺の住職でした。

参考文献
『本堂過去霊名簿』、『実録』正

不角、没

 6月21日、俳人の不角(寛延元年「人物」参照)が没しました。祐天寺の夜余りの弥陀の寄進者である妙船の父(あるいは兄)であり、夜余りの弥陀の縁起を書いた人物です。享年92歳。法号は満光院法眼釈松月不角居士で、築地門跡成勝寺に葬られました。辞世は次のとおりです。

  空せみはもとの裸に戻りけり

 そして、不角の娘(あるいは妹)妙船(寛延元年「人物」参照)もあとを追うように7月7日没しました。法号は松誉孤残妙船信女です。

参考文献
『本堂過去霊名簿』、『寺録撮要』2、『武江年表』1

寺院

了風、知恩院住職に

 3月、雲頂に代わって鎌倉光明寺の了風が知恩院第52世住職となりました。しかし、在位わずか1年半ほどで、了風は遷化してしまいました。


身延山祖師像、開帳

 4月、甲州(山梨県)にある日蓮宗総本山の身延山久遠寺の日蓮像が、品川浄心寺で開帳されました。像が江戸に到着した日は、日蓮をひと目拝しようと迎えに出た人々の列が、品川から日本橋まで続いたそうです。


大玄、増上寺住職に

 11月、鎌倉光明寺住職の大玄が、増上寺第45世住職となりました。「大玄」の名は、生国の下野国(栃木県)長松院で剃髪する前夜、長松院住持の俊能が、夢に大黒天が踊躍するのを見たことから付けられたそうです。大玄は当時飯沼弘経寺の住職であった祐天上人に師事し、のちには祐天上人に従って伝通院から増上寺へ移りました。情が厚く、純朴な人柄で、求道心は人一倍強い僧でした。

参考文献
『縁山誌』10(『浄土宗全書』19)、『知恩院史』(藪内彦瑞編、知恩院、1937年)、『武江年表』1

風俗

関東初の醤油仲間、結成

 日本の食文化になくてはならない調味料である醤油(宝永7年「解説」参照)は、江戸時代初期には京、堺、そして紀州(和歌山県)湯浅村などの上方を中心に醸造され、「下り醤油」の名で江戸市場のほとんどを占めていました。しかし、関東でも江戸時代の中期には醤油の醸造が始められ、なかでも下総(千葉県)の野田・銚子などで盛んになっていきます。これは、干鰯産業を手掛ける紀州の漁民が鰯を追って九十九里浜の辺りに移り住み、そこで手に入れた資金をもとに醤油醸造業に進出したと言われます。銚子・野田地方はともに利根川水運が発達しており、醤油に必要な原料が集まりやすく、同時に醸造された醤油を地方へ輸送するにも便利な場所にあったのです。
 銚子での醤油醸造は、関西の西宮出身の海産物問屋からその製法を教わったという田中玄蕃(ヒゲタ醤油始祖)や、紀州広村(湯浅村の隣村)出身の浜口儀兵衛(ヤマサ醤油始祖)、同じく広村出身の岩崎重次郎、柳仁平治などにより始められました。田中玄蕃は、すでに元和2年(1616)には醸造を始めていたと言われます。初めは「溜醤油」という製法で造られていましたが、元禄年間(1688~1703)頃から「生醤油」製法が取って代わり、関東濃口醤油が誕生していきました。ちょうどその頃、江戸の発展によって「下り醤油」が市場で品不足となるようになりました。これに目を付け下総から江戸市場へ本格的に売り込むために、銚子の伊勢講(「解説」参照)仲間が集まって醤油仲間が結成されたのです。この醤油仲間は、やがて利根川水系を中心にほかの地域でも結成されるようになり、「下り醤油」に代わって関東濃口醤油が江戸の市場を独占していきました。


養育費目当ての貰い子殺し

 捨て子は江戸時代を通じて大変多く見られました。しかし幕府は、子を捨てた親については処罰を与えることはなかったそうです。捨て子があった場合は、その捨て子を拾った者か、あるいは捨て子が見つかった町で養育するようにと指示しています。たいていは捨て子が発見された町が、捨て子の発見者にいくらかの金を渡して養育を一任していました。
 江戸通新町に住む半七という町人はこの金に目を付けます。あちこちで名を変えて捨て子を引き取っては殺し、金だけを得るという非道を行ったのです。この事実が明るみに出ると半七は磔に処され、また半七が奉公していた家の主の平吉も、このことを知りながら金をもらって黙認していたために死罪を申し付けられました。

参考文献
『国史大辞典』、『近世事件史年表』、『図説千葉県の歴史』(三浦茂一編、図説日本の歴史、河出書房新社、1989年)、『江戸時代人づくり風土記12千葉』(組本社編、農文協、1990年)、「捨子」(三田村鳶魚、『三田村鳶魚全集』第13巻、中央公論社、1975年)

芸能

『京鹿子娘道成寺』初演

 3月、中村座で歌舞伎舞踊『京鹿子娘道成寺』が初演されました。作詞は藤本斗文、作曲は初世杵屋弥十郎と杵屋作十郎です。白拍子実は清姫の亡霊の役を初代中村富十郎が演じました。
 男を追ううちに蛇体となった娘が、男が逃げ込んだ道成寺の鐘に執心をかけるという紀州道成寺伝説をもとにした「道成寺物」の歌舞伎舞踊の中でも、最も人気のある流行曲となりました。
 踊りの名手である富十郎がこの曲の振付けをしたとき、見ていた人が「名人のあなたにしてはやさしい振りばかりだ」と言ったそうです。富十郎はそれに対し、「このくらいでないと皆人が覚えられない」と答えたそうで、はたして曲は大当たりし、富十郎の見込みが正しかったことが裏付けられたそうです。

参考文献
『歌舞伎事典』

人物

安藤昌益 元禄16年(1703)~宝暦12年(1762)

 『自然真営道』(宝暦5年「出版・芸能」参照)の著者として知られる安藤昌益は、かつては架空の人物ではないかと言われるほど、その存在は謎に包まれていました。明治時代に偶然発見された『自然真営道』の稿本により、狩野亨吉らによってその思想の研究が進められていましたが、一般的に昌益の名が知られるようになったのは昭和20年(1945)代後半のことです。
 昌益は、出羽国(秋田県)仁井田村で肝煎(村役人)の家に生まれたと言われています。その後、延享元年(1744)に陸奥国(青森県)八戸城下で町医者を開業しました。医者となる前は僧侶だったという説もありますが、昌益がどこで医者の修行を積んだかなどについては不明です。八戸の領主の根城南部氏の氏神である櫛引八幡宮での流鏑馬神事の際、暑気当たりで倒れた射手の治療に呼ばれたのが昌益でした。このとき昌益は、薬代として与えられた金を辞退しています。また、八戸藩家老が大病のときに薬の調合の相談を受けるなど、すでに藩からも信頼を寄せられる人物であったことがうかがえます。このとき44歳であった昌益には、妻と3人の子供がいました。門人も多く、特に宝暦3年に『自然真営道』が京で出版されると、大坂、京にも門人が増えていきました。
 宝暦8年(1758)、八戸に妻子を残したまま、跡継ぎがいなくなった安藤の本家を継ぐために仁井田村へ戻った昌益は、門人であった地主たちと寄合を指導して、飢饉状態にあえぐ村を救うべく奔走します。無駄な支出を抑えようと、神事などの儀礼を一時停止したため、昌益は村の宗教関係者から目の敵にされました。これにより、昌益の3回忌に際して門弟たちが顕彰碑を建て昌益を「守農大神」として祀ることに、宗教関係者たちから反対を受けました。結局、一度は建てられた石碑も破壊されました。このことも昌益を謎の人物にした一因と言えるでしょう。
 昌益は、世界的にも珍しい思想家だと言われます。人間も自然の一部として捉える思想や、自分の存在は他者が存在することによって認められるとする、「互生」という昌益独自の言葉で表される考え方は、日本で唯一の独創的思想とも言われています。当時の封建的社会の中で、昌益の唱える「徹底的な平等」は非常に珍しいものでした。安藤昌益の存在は、GHQのカナダ代表部主席として来日したE・H・ノーマンによって海外にも紹介され、日本の戦後思想に強い衝撃を与えたと言います。

参考文献
『歴史誕生』9(NHK歴史誕生取材班編、角川書店、1991年)、『国史大辞典』、『朝日日本歴史人物事典』
TOP