明顕山 祐天寺

年表

宝暦元年(1751年)

祐天上人

祐林、遷化

 12月18日、駿州厩西岸寺の祐林が遷化しました。法号は定蓮社禅誉上人照道祐林和尚です。本芝西応寺に住した祐天上人弟子の寂天(享保7年「祐天寺」参照)の弟子です。

参考文献
『本堂過去霊名簿』、『寺録撮要』1

祐海、『在家朝夕看経之法式』を著す

 祐海はこの年、『在家朝夕看経之法式』を著しました。在家の信者が朝夕に勤めるべき勤行式を記述した書で、祐天上人の法語も記されています。

参考文献
『在家朝夕看経之法式』奥書 (祐天寺蔵)

磐城最勝院釣鐘の銘、作成

 9月14日、磐城最勝院第15世住職である慈運が最勝院の釣鐘に銘文を記しました。その銘文の中には、祐天上人が最勝院の常念仏を始めたことが記されています。

参考文献
「最勝院鐘銘」(大須賀□軒編、『雑纂磐城誌料』、静嘉堂文庫蔵)

伝説

作兵衛の痔疾、平癒

 下総(千葉県)埴生郡釜井作兵衛は重い痔疾で立ち働きもできませんでしたが、祐海の名号を請い受けて信仰心を込めて呑んだところ、平癒しました。正月4日のことでした。

参考文献
『祐海上人略伝付録利益記』

寺院

増上寺、山内学寮に質素倹約などの令

 2月に増上寺の学寮に対し、倹約などを命じるさまざまな条令が出されました。条令は、入寮や転寮の際の食事の振る舞いの停止や、饗応のときに出す膳の皿の数、山内で取り交わされる諸祝儀の禁止、綿以外の内衣・塗下駄の着用の禁止など、14か条に及びました。

参考文献
「山門通規」(『増上寺史料集』3)

風俗

将軍吉宗、薨去

 延享2年(1745)に将軍の座を退いてからのちも(延享2年「事件・風俗」参照)大御所として政治に影響を及ぼし続け、享保の改革の行く末を見守っていた吉宗でしたが、6月20日に中風(脳卒中によって起こる運動神経の麻痺)により薨去しました。享年68歳でした。健康で頑丈な身体を誇り、江戸幕府歴代将軍の中で4番目に長生きした将軍です。延享3年(1746)にも一度中風で倒れ、一時はかなり生命が危ぶまれましたが、4か月ほどで狩りができるまでに回復します。今回はこのときの病の再発でした。
 葬儀は上野寛永寺で営まれ、遺言により遺骸は寛永寺の常憲院殿(綱吉)廟に合祀されました。将軍が薨去されると通常は、豪華な霊廟が建てられるのですが、吉宗はこれを無駄な出費としたのです。まさに、一生を倹約で通した吉宗らしい遺言と言えるでしょう。


忠義者に褒賞金、30両

 11月、江戸の芝口に住んでいた吉兵衛という町人に奉行所から褒賞金として30両が与えられました。これは、かつての主人であった足袋屋の仁兵衛の窮地を、吉兵衛がわが身をもって救ったという忠義を讃えたものです。
 吉兵衛が仕えていた仁兵衛はこの頃経営に行き詰まり、吉兵衛をはじめ奉公人すべてを解雇しました。しかし、その後も仁兵衛は借りた金を返すこともできず、やがて奉行所へ訴えられるほどになってしまいます。この窮地を見た吉兵衛は、自分の身を刀の試し切りに使ってもらうことによって金を得て、それを仁兵衛の借金の返済にあててもらおうとしました。足の指を3本切り落として証文代わりとした吉兵衛の行いを知った奉行所は、そのあっぱれな心意気に30両を与えたのでした。

参考文献
『徳川実紀』9、『近世事件史年表』、『徳川吉宗』(角川選書)

芸能

『一谷嫩軍記』初演

 並木宗輔(「人物」参照)、浅田一鳥、浪岡鯨児、並木正三らの合作による人形浄瑠璃『一谷嫩軍記』がこの年に初演されました。宗輔が3段目までを書き、宗輔の没後に一鳥らが完成させたとされます。『平家物語』の世界を描いており、特に3段目の「熊谷陣屋」の段は文楽・歌舞伎を通じての代表的な作品の1つです。義経の命を重んじて、一子小次郎を犠牲にして、平敦盛の生命を救った熊谷直実(「解説」参照)は、人の世の無常を思い出家するというあら筋です。

参考文献
『歌舞伎事典』

人物

並木宗輔(千柳) 元禄8年(1695)~宝暦元年(1751)

 並木宗輔は元禄8年に生まれました。出生地は大坂とも言われますが、はっきりとはわかりません。19歳のときに出家して備後国(広島県)三原にある臨済宗妙心派の成就寺の雲水となり、断継慧水と名乗りました。しかし30歳頃に還俗して大坂に住み、西沢一風(享保12年「人物」参照)に師事して豊竹座の浄瑠璃作者となり、並木宗助(のちに宗輔)と号しました。
 宗輔の出家について、角田一郎氏は墓石(大阪市南区中寺町の門法華宗の本覚寺)に刻まれた辞世の句、

  釈尊も十九て出家我も又 
      火宅の門の家出をはする

から、青年期に出離穢土の考えがあったことを指摘しています。また、還俗については、遠因として師の達空明が早く亡くなって不遇であったことを挙げ、直接の原因としては宗輔作の漢詩などから、享保8年(1723)に起きた大地震に衝撃を受け、自分の禅の信仰に自信を失ってしまったのではないかと推察されています。
 西沢一風が享保11年(1726)に並木宗助と安田蛙文に協力させて作った浄瑠璃が『北条時頼記』で、宗助32歳のときでした。これは11か月も興行を続ける大当たりとなりました。それ以来、寛保2年(1742)の『道成寺現在蛇鱗』まで、単独作と合作を合わせて30編の浄瑠璃作品を豊竹座で書きました。その間に元文2年(1737)頃から宗輔と名乗るようになりました。
 延享元年(1744)7月、竹本座の竹本播磨少掾が没し、竹本座は並木宗輔を迎えることになりました。宗輔が51歳のときでした。宗輔は千柳と改名して赴き、後世に残る傑作11編を元祖や2代目竹田出雲、三好松洛と合作することになります。『夏祭浪花鑑』(延享2年「出版・芸能」参照)、『菅原伝授手習鑑』(延享3年「出版・芸能」参照)、『義経千本桜』(延享4年「出版・芸能」参照)、『仮名手本忠臣蔵』(寛延元年「出版・芸能」参照)など、浄瑠璃史に残る不朽の名作が次々に作られました。
 宗輔の作品の特徴としては「きちんと一分の狂いもなく組立てる几帳面な理詰めの方法」、「道行を必ず、悲劇の緊張のもり上がった三段目切のあとの四段目口において、音楽と色彩と所作の美しさで見物の心をほぐす」(吉永孝雄氏)などが挙げられます。また、『仮名手本忠臣蔵』に見られるように、「戯曲の中に1年の四季を盛り込むといった趣向も行われています」(内山美樹子氏)。
 宝暦元年、再び豊竹座のために『日蓮上人御法海』『一谷嫩軍記』(「出版・芸能」参照)を作りました。最後の作品となった『一谷嫩軍記』の3段目まで書いて、宗輔は没したと伝えられています。その後浅田一鳥らによって完成された作品は、この年の12月11日から豊竹座で上演されたのでした。
 宗輔は、並木姓の作者の元祖で、その門下には並木正三、丈助、永助、良輔などの作者がいます。
 多くの名作を残し浄瑠璃の黄金期を築いた宗輔は、宝暦元年9月7日に57歳で没しました。

参考文献
「並木宗輔伝の研究―新資料写本(三原集)を中心とする考察―」(角田一郎、『国文学研究』1956年3月)、「時代浄瑠璃の戯曲構成と時間の問題」(内山美樹子、『演劇研究』1965年12月)、「並木宗輔」(吉永孝雄、『浄瑠璃作品要説』5、国立劇場芸能調査室編、国立劇場、1988年)
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