竹姫は、祐天上人像お前立像を造り、祐天寺に寄進されました。3月15日にその像の開眼供養が行われました。寛延3年が祐天上人33回忌にあたるのにちなんでのことです。
この像は現在神津島濤響寺本堂に祀られています。像の腹内には「明顕山祐天寺本堂中央前立 開山祐天大僧正真影」「仏工 法橋竹崎石見」などの文字が墨書されています。濤響寺の資料によると、濤響寺には明治21年(1888)にこの像が安置されたということです。
竹姫はまた、松坂西方寺に祐天上人像の戸帳(たれぎぬのこと)を寄進しました。茶色の地に金襴で牡丹を織り込んであり、葵の紋が貼り付けてあります。
9月30日、文昭院殿廟所別当真乗院第2世である心蓮社忍誉上人法阿義潭和尚が遷化しました。阿弥陀堂供養〔享保9年(1724)〕にも参加するなど、祐天寺に近い存在でした。
12月14日、姫路心光寺住職の恵察が遷化しました。恵察は祐天上人の旧従だった人物で、増上寺の祐益寮にいた経歴を持っていました。
この頃、火事に遭った磐城成徳寺の堂が再建されました。祐海は「成徳寺」「経蔵」という2枚の扁額を揮毫しました。
祐海は、無能寺開山無能の画像を描き、讃も付しました。無能は享保4年(1719)に寂した高僧で、奥州石川郡(福島県)須釜の出身です。一向専修の念仏で日課6万遍から10万遍を課し、厳しい修行の中にも人々を教化するために和歌を多く残すなど、優れた活動をしました。しかし37歳という若年で惜しまれつつ寂したのでした。無能が寂したのちに弟子の不能が正徳寺という寺の名を改め、師を開山と仰いで無能寺として再建しました。
常州(茨城県)信田郡松山村に乳の出ない女がおり、常に嘆いていましたが、寛延3年正月、祐海の名号を呑んだところ、乳が出るようになりました。
常州河内郡高田村の久兵衛は長い間痔疾を患っていましたが、6月、祐海の名号を呑んで平癒しました。
下総(千葉県)印旛郡竹袋村の源八の妻は難産で15日以上も苦しんでいましたが、8月、祐海の名号を呑んだところ、平産しました。
下総埴生郡松崎村の茂兵衛の嫁は長い間てんかんを病んでいましたが、10月、祐海の名号を呑んで快気しました。
8月、江戸肥前座で人形浄瑠璃『新版累物語』を上演しました。並木良輔ほかの作です。