松坂(三重県)西方寺は、祐天上人の信者である森田次郎兵衛直往(元禄10年「伝説」・享保10年「祐天寺」参照)が大金を寄付して不断念仏道場とした寺院です。玉山成元師の文章を引用しておきます。
「西方寺所蔵の4月18日付で森田浄源に宛てた祐益上人(祐天寺第3世)の手紙によると、祐益上人は、浄源が祐天上人の年忌に百疋の香資を供えられたお礼を言うと同時に、西方寺に納められる祐天上人像が、3月21日に祐天寺に運ばれ、4月8日に入仏式が終わったので同道してもらいたいと言っている。西方寺蔵祐天上人のお名号の裏に、祐益上人の記した識語によると、寛延2年5月21、22日の両日、祐天上人像と霊宝を祐天寺の本堂中央に安置して結縁したことが記されている」
この像は翌寛延3年(1750)松坂に運ばれ、祐天寺の什宝とともに開帳されました。
下総国(茨城県・千葉県)において、祐海の名号による奇瑞が数多く起こりました。次に一例を挙げます。
2月、下総国相馬郡(茨城県)相馬村根戸の太郎左衛門は中風で100日ほど患っていましたが、祐海の護符を呑んで本復しました。また、太郎左衛門の嫁は長くおこりを病んでおり、医療をしても効果がありませんでしたが、名号を呑んだところ平癒しました。8月のことでした。
このほかにも、河内郡竜ヶ崎(茨城県)での「岡野源右衛門の頭痛、快復」、河内郡柴崎村(茨城県)での「治郎左衛門妻の乳、出る」、信田郡(茨城県)での「庄右衛門娘のてんかん、治る」、羽生郡松崎の里(千葉県)での「清宮茂右衛門娘、安産する」などの記録があります。
勢州(三重県)松坂西方寺の祐天上人像ができ上がり、祐天寺に入仏(仏像などを迎えて仏堂・本堂に入れること)されました(「祐天寺」参照)。その関係で名号が多く配られたのでしょうか。松坂に利益をこうむった人々が大変多く出ました。一例を挙げてみましょう。
松坂魚町の山本長三郎の母は、持仏の阿弥陀如来の足先が欠けたので嘆いて、祐天上人の版木で刷った名号を仏壇に安置し、足の直ることを祈念していました。すると翌朝不思議なことに足が直っていたのです。
このほかの奇瑞としては以下のようなことがあり、『祐天大僧正利益記』に記録が残っています。
「松坂瓦町で娘のおこり、治る」、「松坂瓦町の男の狂乱の態、名号で治る」、「松坂鍛冶町の歩けない男が歩行自在となる」、「松坂本町で喉に刺さった魚の骨、抜ける」、「松坂黒部網屋村で狐憑き、落ちる」などです。
一雪の著作、神谷養勇軒の編集による随筆。大坂で刊行されました。「往生篇」第13には「絹川の二霊念仏を輾す」と題して累の伝説が、また「妬魂くびを抱て念仏往生す」、「亡魂回向したしからざるを
距離」、「足をつまだて念仏して母聖瑞を夢る」と題して、祐天上人の伝説が収録されています。
大坂の嵐三五郎座で3月、累物の歌舞伎『下総国累譚』が初演されました。鎌で累殺しを行う趣向の最初の事例とされます。
京の嵐三右衛門座で歌舞伎『菊累解脱物語』が初演されました。大坂の『下総国累譚』と筋はほとんど同じです。