明顕山 祐天寺

年表

寛延元年(1748年)

祐天寺

竹姫、袱紗を寄進

2月、三種宝物(身代わり名号、祐天上人舎利のうち、宝塔に納めなかった分、祐天上人舌根)の厨子を覆う袱紗が竹姫より寄進されました。

参考文献
『寺録撮要』3

正一位稲荷大明神

3月、嶋崎左源太の世話で稲荷大明神に正一位号を授与されるよう、御目付衆に届け出を行い、頼みました。7月に認可され、9月15日、飛脚で証紙が届けられました。

参考文献
『寺録撮要』2

阿弥陀如来と霊宝、開帳

4月1日より祐天寺において阿弥陀如来と霊宝(三種宝物か)を開帳しました。

参考文献
『武江年表』1

夜余りの弥陀の寄進

4月、法眼不角(「人物」参照)が夜余りの弥陀の縁起を書きました。不角の娘(あるいは妹とも)の妙船(「人物」参照)により夜余りの弥陀が祐天寺に寄進されたのも、この年と思われます。また、牙落としの名号(「伝説」参照)も妙船によりこれ以前に寄進されています。

仏工の安阿弥は7日の間に阿弥陀仏を彫刻しようと誓って刻み始めましたが、7日目の鶏が鳴くまでに左足だけ荒削りのまま刻み残してしまいました。これが「夜余りの弥陀」の名の由来です。安阿弥は老齢だったので彫刻は最後と思い、道具を阿弥陀仏の腹中に納めおきました。この阿弥陀仏を祐天上人が生前に拝まれたことがあり、故あって祐天寺に納められるようになったのです(「人物」、宝暦7年「祐天寺」参照)。

参考文献
『寺録撮要』2

伝説

牙落としの名号

元禄年間(1688~1703)の初め、江戸の老女某が牛島の庵室で祐天上人の名号を拝受したのち、知人数人とともに秩父三十三観音の霊場を巡礼しました。ある日、その老女が知人たちに遅れて1人で歩いていると、道ばたの藪の中から狼が走り出てきて食い付こうとしました。老女は限りなく恐ろしく、高声に念仏を称え、襟掛けにしていた名号を取り出して狼の鼻先にかざしました。狼も名号の威力を感じたのか、頭を垂れて大地に伏し、1枚の牙を落としました。

老女は、危うく難を逃れたのは念仏の利益、祐天上人のおかげであると庵室に詣でて礼を述べ、名号と拾ってきた狼の牙を見せました。その座に江戸中橋の松村半兵衛(享保18年「祐天寺」参照)という者がおり、懇望してその名号と牙を譲り受けて長年護持していましたが、のちに息子の妻の妙船(「人物」参照)に与えました。妙船は、祐天寺の祐海がその名号を拝見したいと望んでいることを聞き、名号と牙を祐天寺に納めました。また、のちに夜余りの弥陀と呼ばれる阿弥陀如来像(「祐天寺」、「人物」参照)も奉納しました。

牙落としの名号について妙船はその縁起を下書きし、父(あるいは兄とも)の法眼不角(「人物」参照)に清書を頼みました。縁起の最後には不角の次の句が書かれています。

ひと葉落ちぬ狼谷の夕嵐

参考文献
『利益記』上、『寺録撮要』2

紀州日高の難船の舟人、助かる

6月7日、紀州日高の商船が伊豆の沖で大風により転覆しました。船の人々は海中に投げ出され溺死してしまいましたが、1人の水主は沈みもせずに波間に漂っていました。9日目に同国紀州の回船が発見し、この水主を助け上げました。9日間も絶食だったのかとの問いに、水主は誰とはわからない声が聞こえて「飢えたら名号を噛め」と教えてくれたので、襟掛けにしていた名号を噛んでいましたと答えました。名号を開いてみると、名号も守り袋も噛み破られてありました。

参考文献
『祐天大僧正利益記』下

治郎兵衛の孫の腹痛、平癒

下総国羽部郡上福田治郎兵衛の孫は、10月10日より19日まで虫による腹痛を起こし、さまざまに治療しても治りませんでした。しかし、祐海の名号を呑んで平癒しました。

参考文献
『祐海上人略伝付録利益記』

人物

妙船尼

生没年不詳

妙船は江戸時代中期の尼僧で、京橋槇河岸に住んでいました。父(あるいは兄とも)に俳人の法眼不角(「祐天寺」・宝暦3年「祐天寺」参照)がいます。

不角は本名を立羽平八と言いました。寛文2年(1662)に誕生しました。13歳で岡村不朴に俳諧を師事し、若年からその才能は知られていたようです。

松とりて常の朝日と成にけり
不角の俳諧は平明で通俗的ですが、人を引き付ける俳諧でした。東北地方で特に人気が高く、不角の撰集には東北地方の人の句が多く見られます。また高位富貴の門人もおり、備前の岡山侯なども不角の門人の1人でした。そのような人的関係もあってか、不角は法橋となり、やがて法眼の位も得ています。

しかし妙船は、俗に混じって生きた不角とは、やや違う型の女性だったようです。妙船は出家前から深く仏道に帰依していました。それがわかる逸話が、祐天寺夜余りの弥陀の縁起に関する話です(「祐天寺」参照)。

不角が書いた縁起によると、松村半兵衛(享保18年「祐天寺」参照)という裕福な者がおりました。ある夜、阿弥陀如来像が「吾を祀れ」という霊夢を見ました。貧寺より夢と同じ阿弥陀仏像を見出し、自宅に移し迎えて供養しました。そして仏具は半兵衛の長男の宗欽の妻、むらが寄進しました。

半兵衛は祐天上人が牛島に隠遁しておられる頃からご懇意にあずかっており、祐天上人は折々に半兵衛の家へも来訪していました。そういう折に阿弥陀如来を拝まれたこともあります。半兵衛没後に宗欽は仏道を疎んじ、如来像を土蔵の2階に上げ置いて鼠の巣の番のようにしてしまいました。すると不思議なことに、土蔵2階から毎夜読経の声がするのです。さてはこの如来像が経を読まれるのかと皆は感涙を流しました。そこで宗欽の妻のむらは、新しく土蔵を建て、この阿弥陀如来を祀りました。宗欽も50歳で亡くなるときには、仏をおろそかにしたことを悔いて安らかに往生しました。むらは出家して妙船と名乗り、仏に仕えましたが、自分1人でこの仏を拝むことは光明遍照の仏の誓いに合わないであろうと思い、祐天寺へ納めました。これより以前に牙落としの名号(「説明」参照)も妙船が納めたのですが、そのとき縁起は不角が書きました。夜余りの弥陀の縁起も書いて欲しいと妙船が頼み、当時88歳の不角が縁起を書いた次第です。縁起の最後に不角が付している句です。

夏の夜はあしたに余る有明の
また、いつの頃からか妙船が夕方に経文を読んでいると頭上に、仏壇より数点の光明が輝き、また背後より光が射して仏間を照らすようになりました。信心が厚いゆえであるとの評判が立ちました。けれども妙船は、罪業深い身にそのような光明が現れるわけはないと思い、魔物の仕業ではないかと悲しみました。ある夕暮れ、仏間の2階で不審な物音がするので息子に確かめさせたところ、古狐が2階の窓から飛び下りて逃げ去っていったと言います。息子がこの由を告げると、妙船はそうでしょうと言ってますます信心を堅固にしたということです。

参考文献
 『寺録撮要』2、「経蔵と夜余りの弥陀」(伊藤丈、『祐天ファミリー』6号、1996年4月)『日本女性人名辞典』(芳賀登ほか監修、日本図書センター、1993年)、『大日本女性人名辞典』(高群逸枝、厚生閣、1936年)、『日本女子立志編』()、「享保俳諧の三中心」(潁原退蔵、『潁原退蔵著作集』、白水社、1988年)
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