師、檀通上人を見送った祐天上人は、ほかの弟子たちとともに、増上寺に戻りました。戻った時期について、『祐天大僧正行状記』には「七々日(四十九日)の仏事を営んで」のち、〔つまり延宝2年(1674)秋から冬のこと〕と記します。しかし鎌倉から増上寺へ上られた詮応上人(「寺院」参照)の随身衆として学寮へ戻られたことが入寺帳からわかっています。つまり延宝3年閏4月28日です。
増上寺に入山した者の記載がある『入寺帳』により、当時、どのような者の入寺が認められていたかがわかります。長谷川匡俊氏は、「一般に増上寺より他檀林へ、あるいは府内檀林から田舎檀林へ籍を移すことは比較的容易であったが、田舎檀林より増上寺へ他山する場合は、そう簡単には許可されなかった。増上寺には所化大衆が多数掛錫しており、他檀林の者の席入に困難な事情が伴ったからである」と述べられています。そこで、たまたま増上寺に上られた上人の随身衆の1人として、祐天上人が戻られたことが推測されます。
帰山直後の祐天上人の地位は、そう高くなかったようです。『顕誉大僧正伝略記』に「輪下」、『祐天大僧正実録』に「本席」と出ています。増上寺の上読法問席は一文字・扇間・縁輪の3席に分かれていて、内陣に近い上座から順に座りました。「輪下」の地位ではこの上読法問席の中に入れなかったようです。
帰山直前の延宝3年4月20日幕府は、増上寺に他山から入寺する者はその器量によって地位を決めることを義務付けました。それ以前ははっきりした規定がなかったのです。28日に大勢の僧が詮応上人に従って増上寺に入ることを考慮しての措置と思われます。
当時、増上寺には120余りの学寮があり、全国の浄土宗学徒約3、000人の集う高等教育機関でした。学徒たちは学寮に住み込み、各学寮には寮主がいました。寮主には、頌義十人衆(下読法門の席で法門主の左右に並ぶ10人の僧)以下の者はなれないなどのきまりがあり、相当の能力がないとなれなかったのです。さらにその中でも年かさで修行も積んだ者が学頭(延宝4年「祐天上人」参照)となって皆の学問、生活の指導にあたっていました。
学寮生活のきまりとして、談義所壁書33か条がありました。その中には「勤行番は香華灯明茶湯などに気を付けること。失敗すると罰金20銭」「掃除に参加しない者は罰金20銭」「頭巾、数珠は頌義十人以上の者に許す」「寺内も寺外も白衣(衣を着けていない状態)で出歩いてはならない」「礫を投げたら寺を追放」「往来で大騒ぎしてはならない。したら寺を追放」などと、現在の学生寮の規則を思わせるようなものもあります。
3月に珂天上人は腫れ物を患いました。これがどういった種類の病だったのか今では定かではありませんが、翌月の閏4月に珂天上人は病を理由に増上寺住職を退くことを願い、許可されて麻布一本松に隠居しました。住職を継いでから引退までは、わずか2年足らずで、こののち珂天上人は同じ年の6月に70歳で入寂します。代わって、鎌倉光明寺の住職であった詮雄上人が増上寺28世となりました。また、詮雄上人が江戸へ上られる際、祐天上人も随身として増上寺学寮へ戻られています(「祐天上人」参照)。