明顕山 祐天寺

年表

延享04年(1747年)

祐天上人

開山廟所宝塔に歯を納める

 享保3年(1718)正月17日、祐天上人82歳のときに歯が抜け、それを旧随である香残は信心のために所蔵していましたが、この年3月、祐天上人廟所の宝塔(墓)に納めました。

参考文献
『寺録撮要』3

専称寺に竹姫の柱隠を寄進

 7月15日、磐城専称寺に竹姫の葵紋付き柱隠が寄進されました。祐海が行ったものと伝えられています。

参考文献
『磐城志』4(岩磐史料叢書下、岩磐史料叢書刊行会、歴史図書社、1972年)

井上河内守、最勝院より貸借

 7月、井上河内守正経(「説明」参照)は磐城最勝院(祐天上人実家新妻家の菩提寺)の常念仏料70両を借りました。寺社が大名にお金を貸すことはよく行われましたが、これもその一例で、祐天上人が菩提寺に多額の寄付をしたことで最勝院の経営もこの頃には順調だったことがしのばれます。

参考文献
「祐天上人の菩提寺最勝院」(玉山成元、『THE祐天寺』17号、1991年3月)

伝説

輿五左衛門の妻の乳、出る

 常州河内郡大田村輿五左衛門の妻は乳が全然出ませんでしたが、11月5日、祐海の護符名号をいただいて呑んだところ乳が出るようになり、子を養うことができました。

参考文献
『祐海上人略伝付録利益記』

七兵衛の娘の乳、出る

 同州同郡大田村七兵衛の娘は乳が出ないで嘆いていましたが、12月18日、祐海の名号を呑んだところ乳が出るようになりました。

参考文献
『祐海上人略伝付録利益記』

説明

井上河内守

この年5月20日、寺社奉行井上河内守の妹が逝去し、祐天寺に供養料20両と共に位牌が納められました。井上河内守は寛延2年(1749)にも50両と共に位牌を納めており、祐天寺に信仰を寄せていたことがしのばれます。

参考文献
『本堂過去霊名簿』

寺院

了般、示寂

 増上寺第42世の尊誉了般が寂しました。尾道(広島県)正授院(元禄15年・宝永3年・正徳3年「祐天上人」参照)で出家し、了也に師事しました。天英院の葬儀の導師も勤めた人物です。


増上寺、寺領をたまわる

 8月に増上寺は幕府から寺領をたまわり、合わせて1万540石の寺領を抱えるようになります。また同時に、境内の山林の竹木諸役の免除の朱印もたまわりました。

参考文献
『浄土宗大年表』、『浄土宗大辞典』、『徳川実紀』8

事件

江戸城中で人違い刃傷事件

 8月15日の朝、7、000石の旗本の板倉修理勝該が江戸城大広間の便所で細川越中守宗孝を後ろから斬り付けました。勝該は常から狂気じみたところがあり、宗家(本家)の勝清は勝該を隠居させようとしていたのですが、これを聞いた勝該は勝清を殺そうと思い待ち受けていたところ、家紋が似ていることから誤って宗孝を刺してしまったのです。奥医がさまざまに治療を施しましたが宗孝は死亡しました。宗孝の跡は弟の細川民部(重賢。宝暦6年「人物」参照)に相続させました。勝該は切腹、その家は断絶となりました。

参考文献
『徳川実記』9、『物語日本の歴史』24(笠原一男編、木耳社、1993年)、『過眼録』(喜多村信節、『続燕石十種』、森銑三ほか監、中央公論社、1980年)、『武江年表』1、『歌舞伎事典』、『近世事件史年表』

風俗

日本左衛門、捕縛

 この時期、浜島庄兵衛という賊徒が町を荒らし回り、日本左衛門と名乗っていました。延享3年(1746)に出されたお触れによると、庄兵衛の背丈は5尺8寸(193センチメートル)、年は29歳だが見かけは31か32歳に見え、月額は濃く、額には1寸5分(5センチメートル)の引傷がありました。また色は白く、歯並びは正常で、目は中細、鼻筋が通って面長の顔立ちだったようです。尾張藩の足軽の子でしたが、身を持ち崩し、数十人の子分を率いて大名、富豪をねらって盗みを働いていました。しかし、詮議の厳しさに庄兵衛は、延享4年正月18日に京都町奉行所へ自訴し、江戸へ送られて3月21日に一党の者とともに刑死しました。
 のちの文久2年(1862)に河竹黙阿弥が、歌舞伎『青砥稿花紅彩画』(文久2年「出版・芸能」参照)に5人男の盗賊の首領として日本駄右衛門という盗賊を登場させたため、日本左衛門はそのモデルとして有名になりました。

参考文献
『徳川実記』9、『物語日本の歴史』24(笠原一男編、木耳社、1993年)、『過眼録』(喜多村信節、『続燕石十種』、森銑三ほか監、中央公論社、1980年)、『武江年表』1、『歌舞伎事典』、『近世事件史年表』

芸能

『義経千本桜』初演

 竹田出雲、三好松洛、並木千柳(宝暦元年「人物」参照)らの合作による人形浄瑠璃です。11月に大坂竹本座で初演されました。『菅原伝授手習鑑』(延享3年「出版・芸能」参照)、『仮名手本忠臣蔵』(寛延元年「出版・芸能」参照)とともに人形浄瑠璃の時代物3大名作とされます。
 源義経が兄の頼朝に追われて敗走する話は貴種流離譚(「解説」参照)の伝統を踏まえており、広く巷間に感動を呼びました。またその過程に、義経が頼朝に差し出した平家の武将の首のうち3つは偽首だったという話を絡ませて筋を組み立てています。新中納言知盛と三位中将惟盛、能登守教経の3人はそれぞれ身をやつして漁師銀平、鮨屋の手代弥助、横川の僧都覚範と名乗り平家再興を志していますが、大物の浦への入水、出家、義経の忠臣である忠信に討たれるという運命をたどります。作品上で焦点が合わされているのはこの3人ですが、それにいがみの権太と狐忠信のエピソードが加わります。
 この作品の初演の折、人形遣いの吉田文三郎が狐忠信の人形の耳が動く仕掛けを考案し、名作であると同時に演出のおもしろさも加わって「古今の大当たり」を取ったとされます。吉田文三郎は人形遣いの名手として名高く、文三郎の遣う人形には魂が入っているという評判は当時から高かったのです。宝暦7年(1757)に『薩摩歌妓鑑』という作品が上演された折には、昼間に文三郎の遣った人形が夜になると勝手に動き回り、5人斬りの動きを演じていたという怪談まであります。


3千両の顔見せ

 11月、江戸中村座の顔見せ狂言『伊豆軍勢相撲錦』に、海老蔵(2代目市川団十郎、享保6年「人物」参照)、沢村宗十郎と瀬川菊之丞の3名優がそろって出演しました。千両役者が3人そろい、その給金を合わせると3、000両を超えるところから、「3千両の顔見せ」として有名になりました。なお、この舞台で宗十郎は2代目沢村長十郎を襲名しました。

参考文献
『市川団十郎』(西山松之助、人物叢書、吉川弘文館、1960年)、 『歌舞伎事典』、「芸道奇談」(諏訪春雄、『日本奇談逸話伝説大事典』、志村有弘ほか編、勉誠社、1994年)

人物

大槻伝蔵 元禄16年(1703)~寛延元年(1748)

 加賀騒動(延享3年「事件・風俗」参照)の張本人として名を知られる大槻伝蔵は、名を朝元と言います。名付け親は、まだ当時加賀国(石川県)にいた室鳩巣(享保17年「人物」参照)で、元旦に生まれたのでこう名付けられたと言われています。「伝蔵」は仕官初期の通称で、のちには「内蔵允」と改めました。足軽の大槻七左衛門の3男に生まれ、子供の頃から手習い好きで頭も良かったので、親に将来を期待されて小立野波着寺へ小僧に出されました。当時、身分の低い者が出世するには、僧侶か医者か学者になるのが最も順当な方法とされていたのです。そして、どのような縁があったかは定かではありませんが、享保元年(1716)伝蔵14歳のときに、藩主前田綱紀の嫡子吉徳の御居間坊主として召し出されました。このとき吉徳は27歳で、伝蔵は利発なうえになかなかの美少年でもあったようで、吉徳から大変寵愛されました。享保8年(1723)に吉徳が加賀藩を相続したのち大奥に泊まる夜にも、伝蔵だけは召し出され布団を並べて寝るということがあったそうです。
 吉徳が藩主となってから、伝蔵は束髪の命を受けて士官として取り立てられるようになりました。それからまたたく間に「御昵近の衆」という、藩主に目通りができる身分にまで栄進していきます。享保19年(1734)に御近習御用の物頭並となったときからすでに伝蔵は藩内で強い発言力を持っていたようで、「表向きの役人からの上申は採択されず、大槻伝蔵が1人で取り計らっている」と老臣が嘆くこともありました。家臣団の最高位である人持組になったのは寛保元年(1741)のことで、この異様な栄進は江戸の旗本衆の間でも噂になったと言います。
 油壺を持ったままでも行燈の戸を開けやすいようにと、もとは左から右へ開けるようになっていたものを右から左へ開けるようにした「大槻行燈」というものを考案したり、夏に川岸に簀子囲いを作ってそこで馬の足を冷やして馬の疲労をいやし、能率的に使えるようにした「冷し馬」の習慣を作ったのも伝蔵だと言われていますが、伝蔵が何よりもその手腕を発揮したのは、藩財政の引締めでした。「加賀百万石」と言われるほどの豊かな財政を誇っていた加賀藩も、藩主代々のぜいたくな暮らしを支えるにはすでに限界に来ていたのです。伝蔵のとった倹約策は、城内や江戸藩邸の日雇取りをやめて、常雇いで1日中暇を持て余していた小者を使役するようにしたり、足軽へ与える切米を加賀米ではなく格の低い越中米にするなどといった、非常に細かいことでしたが、かえって倹約が隅々まで行き届いていると吉徳には好評でした。しかし、古くからの重臣たちにとって、古い格式や旧例が成り上がり者の伝蔵に破られていくのは我慢がならないことです。さらに藩士たちの私生活にも「倹約」を振りかざし、倹約奉行や倹約御用達という職を設置して横目という一種のスパイに監視させるという徹底ぶりに、ますます伝蔵への非難が高まっていきました。
 吉徳の逝去後から始まった伝蔵の転落は、栄進があっという間であったのと同様に、まさに急転直下なものでした。吉徳の跡を継いだ前田宗辰は、延享3年(1746)に伝蔵を吉徳への介抱不行届という理由で蟄居させ、同年宗辰が急死すると、その弟の重煕は伝蔵に越中(富山県)五箇山への配流を言い渡します。この間に、江戸屋敷内では茶釜毒混入事件が起こり、吉徳の側室の真如院にその嫌疑がかかりました。真如院の居所からは伝蔵との密通をうかがわせるような手紙が発見され、真如院は幽閉処分となります。これを知った伝蔵は、五箇山で割腹自殺をして果てたのでした。

参考文献
『国史大辞典』、『朝日日本歴史人物大辞典』、『加賀騒動』(若林喜三郎、中公新書、中央公論社、1979年)、「実説加賀騒動」(三田村鳶魚、『三田村鳶魚全集』第5巻、中央公論社、1976年)
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