明顕山 祐天寺

年表

延享03年(1746年)

祐天上人

祐益、祐天寺第3世に

 祐海は数え65歳のこの年住職を辞して「茅屋」に閑居し、「西方窟」と称しました。享保3年(1718)に住職となってからおよそ29年の間勤めたのでした(宝暦3年「祐天寺」参照)。祐海の一番弟子の祐益が4月5日に第3世住職となりました。

参考文献
『祐天寺二世祐海上人和字略伝』、『寺録撮要』1、『祐海上人略伝』(祐天寺蔵)

天白稲荷大明神、祐海閑居所に

 祐海は、天白稲荷大明神を閑居所に移しました。

参考文献
『寺録撮要』2

水戸家養仙院、逝去

 水戸家養仙院が逝去しました(元文3年「説明」参照)。祐天寺に信仰を寄せ、お附きの女中の中に祐天寺に位牌を納めた者もいます。

参考文献
『本堂過去霊名簿』、『徳川実紀』9

大御所吉宗、御成

 10月1日、御鳥見の役人が来寺し、明日御成の趣を申し付けられました。寺社奉行山名因幡守よりも同様の達しがありました。竹姫に御成のことをお知らせしたところ、翌2日早朝に御側衆の慰みにという萩原の文を添えて御重1組が届けられました。
 2日は快晴でした。大御所吉宗は碑文谷筋に御成になりました。渋谷金王通りより表門へ朝五つ時(午前8時頃)前に入られ、御成御門外で通り過ぎにお目見え申し上げました。吉宗はしばらく休まれてのち、歩いて鷹狩の場所へ行かれ、八つ時(午後2時頃)裏門から戻られました。御膳を召し上がり、七つ時(午後4時頃)還御されました。住職祐益と隠居祐海は仁王門の外でお見送りしました。お目見えと上意がありました。この日のお供は本丸若年寄の板倉佐渡守、西の丸若年寄の堀式部少輔らです。
 3日、未明より駕籠で出掛け、増上寺ほかへお礼回りしました。4日、寺社奉行の山名因幡守より呼び出され、吉宗お立ち寄りにつき銀5枚の下賜がありました。再びお礼回りを行いました。

参考文献
『寺録撮要』4、『徳川実紀』9

寺院

本所霊山寺、類焼

 2月末の夜四つ時(午後10時頃)築地本願寺脇から火の手が上がり、強風にあおられて日本橋、浅草から千住まで延焼していきました。火が収まったのは翌日の夕七つ時(午後4時頃)のことで、この火事により本所霊山寺やその周辺寺院も類焼し、また江戸三座と呼ばれる中村座、市村座、森田座も焼けてしまいました。


名越派、末寺帳書上を提出

 名越派とは、浄土宗三祖の良忠遷化後に教義の解釈の違いから分かれた分派の1つで、磐城(福島県いわき市)専称寺を中心に発展していったものです(宝永3年「寺院」参照)。延享3年、この名越派から増上寺録所へ、関東末寺82か寺の書上が提出されました。

参考文献
『浄土宗大年表』、『武江年表』1、『年表日本歴史』5、『専称寺史』(佐藤孝徳編、1994年)、『浄土宗大辞典』

風俗

加賀騒動

 江戸時代に起きた三大御家騒動の1つに数えられており、またの名を「大槻騒動」とも言います。延享2年(1745)に加賀藩6代藩主の前田吉徳が逝去したことを巡ってこの年、その寵臣であった大槻伝蔵(延享4年「人物」参照)は吉徳への介抱不行届の罪で蟄居させられ、のちに越中(富山県)五箇山へ配流処分になりました。さらに、吉徳の側室の真如院は茶釜へ毒を混入した罪で幽閉処分になります。事件はこの2人の処分により一応の解決を見ますが、真相は明らかにされませんでした。また、記録もないためにすべては謎に包まれ、講談や小説、歌舞伎に取り上げられるなど、多くの異説が作られました。
 主な説に、伝蔵が真如院と密通して権勢を欲しいままにし、さらには跡を継いだ前田宗辰が相続後わずか1年ほどで急逝したのも、真如院がわが子の利和を跡継ぎに立てようと画策し殺害したのだとするものがあります。これは、寛延元年(1748)に2回、江戸藩邸で茶釜に毒が入れられるという事件が起こり、真如院の娘のお附きである浅尾がこの犯人として捕らえられて企てが明らかになったと言われます。この事件により真如院の子の利和と八十五朗も幽閉され、それを知った伝蔵は配流先で自刃して果て、浅尾もひそかに殺されました。また真如院も本人の願いにより、首を絞めて殺されたと言われています。そのほか伝蔵の家族や家来も処罰され、事件がすべて決着するのは宝暦4年(1754)のことでした。
 実際には、藩主毒殺の事実はありませんでしたし、伝蔵と真如院との密通に関しても、吉徳が伝蔵だけは大奥に呼び入れていたために、あらぬ疑いをかけられたとも言われます。小説などにあるように、浅尾を詮議する際に行われたという「蛇責め」もありませんでした。吉徳の逝去後、伝蔵がまたたく間に失脚させられたところから、もとは足軽の子であった伝蔵に藩政の実権を握られることへ、藩の重臣たちからの反感が大きかったために流れた噂とも見られます。厳しくなる一方の藩財政を救うために伝蔵がとった倹約政策は藩士の私生活にまで及び、それに伴って旧例や古い格式が破られていくことに、重臣たちは我慢がならなかったのでしょう。


江戸で浮絵の流行

 浮絵とは、西洋から中国を通じてもたらされた「遠近法」を用いて描かれた絵を言います。近くのものは大きく、遠くのものは小さく描くという、現在ではごく当たり前のこの画法も、それまでの平面的な浮世絵を見慣れた人々の目には、非常に新鮮なものに映りました。元文4年(1739)頃に出た「市村座場内之図」は初めて世に出た浮絵とされており、市村座の奥行きの深さが見事に描かれています。浮絵の創始者と言われている奥村政信(享保15年「人物」参照)は好んで「歌舞伎芝居」を描きましたが、のちに名所や遠景を浮絵として描くようになり、これが新しもの好きの江戸っ子の間で大いに流行したのです。やがて浮絵は歌川豊春などにより様式が完成され、葛飾北斎や歌川広重などの絵師たちによってさらなる発展を遂げていくことになります。
 浮絵とは、西洋から中国を通じてもたらされた「遠近法」を用いて描かれた絵を言います。近くのものは大きく、遠くのものは小さく描くという、現在ではごく当たり前のこの画法も、それまでの平面的な浮世絵を見慣れた人々の目には、非常に新鮮なものに映りました。元文4年(1739)頃に出た「市村座場内之図」は初めて世に出た浮絵とされており、市村座の奥行きの深さが見事に描かれています。浮絵の創始者と言われている奥村政信(享保15年「人物」参照)は好んで「歌舞伎芝居」を描きましたが、のちに名所や遠景を浮絵として描くようになり、これが新しもの好きの江戸っ子の間で大いに流行したのです。やがて浮絵は歌川豊春などにより様式が完成され、葛飾北斎や歌川広重などの絵師たちによってさらなる発展を遂げていくことになります。

参考文献
『国史大辞典』、『朝日日本歴史人物大辞典』、「加賀騒動」(若林喜三郎、中公新書、中央公論社、1979年)、『実説加賀騒動』(三田村鳶魚、『三田村鳶魚全集』第5巻、中央公論社、1976年)、『江戸の遠近法』(岸文和、頸草書房、1994年)

芸能

『菅原伝授手習鑑』初演

 竹田出雲、並木千柳(宝暦元年「人物」参照)、三好松洛、竹田小出雲らの合作による人形浄瑠璃です。8月に大坂竹本座で初演されました。菅原道真の配流、天満天神縁起を主軸に、その頃大坂で話題となっていた3つ子が生まれた話などを織り込んであります。1段目を小出雲、2段目を松洛、3段目を出雲、4段目を千柳が分担し、それぞれ親子の別れを話に取り入れることを示し合わせて執筆したと伝えられています。菅丞相と苅屋姫の生き別れ(2段「道明寺」)、白太夫と桜丸の死に別れ(3段「賀の祝」)、松王丸と小太郎の首別れ(4段「寺子屋」)はともに評判を呼び、現在でも上演されます。特に「寺子屋」(「解説」参照)の段は人形浄瑠璃・歌舞伎を通じての人気演目の1つです。

参考文献
『歌舞伎事典』

人物

賀茂真淵 元禄10年(1697)~明和6年(1769)

 遠江国(静岡県)に生まれた賀茂真淵は、祖先に京の上賀茂神社の神官を持つと言います。かつて、賀茂氏の娘が遠江国にたまわった所領に賀茂神社の新宮を造り、この宮を祀るために下向した賀茂氏が岡部氏を名乗り、真淵はこの岡部氏の分流の3男(一説に次男)でした。6歳の頃、子に恵まれなかった姉婿の岡部政盛のもとへ養子に入りますが、のちに子供が生まれたので実家へ戻り、また27歳で従兄の岡部政長の婿養子となります。しかし、その翌年に妻が亡くなったので再び実家へ戻るという、縁戚を転々とする青年時代を送りました。1年足らずの結婚生活の終幕のときには、真淵は出家して真言僧になろうとしたとも言われています。
 真淵の先祖には、勅撰集にも名を連ね宮仕えをしていた女性もいたらしく、真淵は父母に小さな頃から『万葉集』にある古歌の良さを教えられたそうです。また、郷里に荷田春満(享保11年「人物」参照)や太宰春台(元文5年「人物」参照)の門人がおり、彼らに和歌や漢学を学び、歌会にも出席していました。そのため、30歳を過ぎた頃からたびたび上京しては春満に師事し、やがて春満の教えを最も正しく受け継ぐ人物と認められるようなったのです。しかし、真淵が訪れてからわずか3年後に春満は亡くなり、いったん真淵は故郷へ帰ったものの、すぐに単身で江戸へ出ます。この真淵の上京の理由は、本陣(大名など、身分の高い者が泊まる宿舎)梅谷家の婿養子となったものの、本陣での仕事を俗物的と嫌っていたせいとも言われています。江戸に上った真淵はしばらくは春満の縁故を頼り、春満の甥で継嗣となった荷田在満などとともに古典の研究会や歌会を催し、同時に紀行文や古典についての研究書などを著しました。
 寛保2年(1742)、在満と田安宗武(享保16年「事件・風俗」参照)との間に起こった「『国家八論』論争」(寛保2年「出版・芸能」参照)について真淵も意見を求められ、このときに真淵は宗武の信任を得るようになります。和歌集のうちで最も優れているのは『古今集』であるとの在満に対して、宗武は『万葉集』を賛美しており、幼少から『万葉集』の素晴らしさについて教えられてきた真淵は、宗武と意見の一致を見たのです。延享3年に50歳で、真淵は田安家に正式に和学御用として召し抱えられ、以来宗武に請われて多くの著作をなしていきました。宝暦10年(1760)に願い出て隠居の身となりますが、その後にも宗武の内命を受けて大和巡りの旅に出ています。
 江戸に出た頃から真淵にはしだいに門下生が増えていきましたが、活動が国学と歌学との双方にわたるため、門下生は大変多彩な顔ぶれだったそうです。武家をはじめ神官、僧侶、医者、そして町人や浪人もおり、なかには「三才女」と呼ばれる3人の女性もいたほどでした。本居宣長が、真淵に託されて『古事記』の研究を大成したという話は有名です。
 国粋主義で古い風習を真似しすぎる傾向のある真淵は非難の的にもなりましたが、情熱的に独自の学問を切り開いた人物としての評価も見逃せません。享年73歳。品川東海寺小林院と、郷里の浜松市教興寺に墓があります。

参考文献
『国史大辞典』、『朝日日本歴史人物事典』、『日本古典文学大辞典』、『日本文学の歴史』8-近世篇2(ドナルド・キーン、中央公論社、1995年)、『契沖・春満・真淵』(阿部秋生、『日本思想体系』39、岩波書店、1972年)
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