正月21日、天英院仏殿建立のために昨年拝領した材木を保管していた小屋から出して改め、2月6日に釿初め式を執り行いました。棟梁は目黒の佐倉木五郎兵衛、肝煎は麹町の次郎兵衛と三十軒堀の八兵衛です。
2月27日、本丸より代参として老女高瀬が来て天英院仏前へ白銀5枚を供え、そのほか作事(工事)に必要な経費を、秀小路(享保13年「説明」参照)の指図だとして寄付しました。
4月11日、田安御殿(宝暦6年「説明」参照)より代参梅沢が来寺し、普請について宗武から50両と御簾中(のちの宝蓮院)から30両を持参し、寄付しました。一橋中将宗尹(覚了院。一橋家については「説明」参照)からも30両の寄付があり、また梅沢の世話で一橋・田安両家の女中方より合わせて86両3歩の寄付がありました。
12日、仏殿の柱立て初めが行われ、肝煎次郎兵衛が弓矢を飾り、神酒、洗米、お供えなどを供養しました。棟梁の五郎兵衛は上下を着て来寺し、祈願を行ったときに、雲一つない空から雨がさらさらと降ってきて、すぐにやみました。このことは永代火災がない祥瑞であると皆感動したのでした。
14日、仏殿上棟式が行われました。祐海はじめ弟子惣衆は仏殿の上へ登り、四奉請、弥陀経、念仏回向を行いました。棟梁らが麻上下で上棟の規式を行ったのち、祐海は茶の間で職人たちに十念を授けました。そののち饗応があり、祝儀が出されたのでした。飾り物は大供え3つ、中供え6つ、神酒2樽、昆布3抱え、通銭3貫文、蒔き銭333文、蒔き餅333個、白米5升、弓弦、白木綿2反、浅黄絹3反、扇子9本、鏡3面、洗米で、いずれも白木の三方に載せて供えました。儀式後、本丸、二の丸の老女方、田安御殿、一橋御殿、竹姫、瑞応院へ赤飯とお供えを差し上げました。
4月20日、住職居間を取り壊すにつき、祐海は書院へ移りました。5月25日、居休屋に付いている廊下を壊しました。
7月4日、天英院仏殿がすべてでき上がり、この日より3日3夜の別時念仏が行われました。本丸の老女高瀬と清崎の扱いで、仏殿へ以下の品々が寄進されました。御紋付き金襴水引1、御紋付き金襴打敷2、御紋付き金襴戸張1、御紋付き紫縮緬幕2張、御紋付き翠簾5枚。これらは本丸の大奥で作って寄進されました。また、牡丹紋付き金梨子地膳具1、朱塗膳具1(位牌お納めのとき奉納)、朱塗膳具1、紋付き銀茶湯器1、御紋付き黒塗りと梨子地の茶湯器3(天英院が在世のとき使用された品)。これらは秀小路より納められました。また、御紋付き滅金大三ツ具足1、御紋付き大前机など、仏殿に付属する品々を、拝領した寄付金のうちから寺側で仕立てました。
なお、天英院御座の間は120坪の広さがありましたが、この材木を拝領して新たに建てた建物は160坪で、間取りは次のとおりです。仏殿(7坪)、小書院内仏の間(21坪)、居間物置役寮(28坪)、小座敷溜り茶所廊下(37坪半)、内玄関小寮(4坪半)、玄関(21坪)、廊下より衆頭寮(18坪半)、台所(16坪)、湯殿(6坪)。これらの工事は7月6日にすべて完了しました。
9月17日、表矢来門の左右に石垣を建立したい旨の願書を、役僧の信哲が寺社奉行の大岡越前守へ持参し、許可されました。施主は下総国の江戸嶋三郎右衛門です。
8月12日、祐海は寺社奉行月番の本多紀伊守へ千部修行の願書を持参しました。18日、来年から10年間の千部修行が許可され、寺社奉行中と増上寺へその旨を届けました。
初秋、松黒稲荷大明神宮の修理を行いました。宮の由来ははっきりしませんが、享保年間(1716~1735)に石残法子が建てたてたものと言われます。宮の場所は、最初は松平讃岐守、次いで黒田甲斐守の屋敷内でした。そのあと百姓の土地となり、のちに祐天寺に属するようになったのです。祐海はそれまで呼び名のなかった稲荷宮に松平と黒田を組み合わせた名、「松黒」を付けました(延享元年「祐天寺」参照)。
祐天上人像(享保3年「祐天上人」参照)、仁王像(享保20年「祐天寺」参照)、祐天寺釣鐘(享保13年「祐天寺」参照)、祐海寿像(元文2年「祐天寺」参照)などを造った京橋の名工である法橋の竹崎石見(入道浄関)が、2月18日、寂しました。法号は己心院清誉浄関大徳です。石見は祐天上人に深く帰依した信者でもあり、『本堂過去霊名簿』を見ると多くの人々の施主となって祐天寺に位牌を奉納しています。
10月17日(あるいは11日)大坂東成郡東高津の源正寺(明和2年「祐天寺」参照)を開基した、藤本祐徹が遷化しました。祐徹は祐海から結縁した弟子で、自分の住む村に1宇を造立して成就庵と名付け、専修念仏して暮らしていました。同郡榎並庄中村に源正寺という古跡があったのを庵室に移し、実子の祐説(宝暦13年「祐天寺」参照)を住職にしました。祐徹の法号は成就院真誉源正祐徹大徳です。
内仏殿完成につき、月光院が奉納された阿弥陀如来像(享保15年「祐天寺」参照)を内仏殿へお移ししました。内仏殿作事料として月光院は御文庫の内金50両を寄付、また御紋付き唐銅灯籠1対、御紋付き水引、御打敷1通りを寄進されました。月光院在世中は、正五九の月にはこの阿弥陀如来に御代参の年寄が参拝され、そのほか臨時のときにも供え物がありました。
延享2年、祐天寺で天英院御座の間の材木拝領にともなう大規模な普請を行った折、一橋家初代 宗尹は多額の寄付を行いました。そして上棟式には一橋家の女中たちも大勢参列したのです。それというのも享保19年(1734)、寛保元年(1741)など、宗尹は小五郎、刑部卿と呼ばれていた時代から祐天寺に来寺されており、祐天寺に親近感を持っていたからでしょう。
同じく御三卿の1つである田安家(宝暦6年「説明」参照)も祐天寺と深く縁があることを考えると、これは両家の始祖の父親である吉宗の影響であるかもしれません。祐天上人のことを「今の世の出家とは祐天のことだ」と評し、祐天寺が起立されてからは自ら3回も御成になった吉宗の祐天寺に対する信仰は自然に田安・一橋両家の始祖である宗武、宗尹にも及んでいたと考えられます。
一橋家の女中が祐天寺に位牌を納める、または埋葬されるという例は19世紀初頭までいくつもあり、家中に信仰が根付いていたことがうかがえます。
常陸国河内郡竜ヶ崎下町の小左衛門の嫁は難産で、延享2年正月3日から5日までひどい腰痛で苦しみました。しかし、祐海の護符名号を呑んだところ、双子を産んで快気しました。
葛飾郡彦倉村にこの年、虚空蔵堂が建立されました。本尊虚空蔵菩薩像は伽羅木の立像で丈は2尺(約67センチメートル)ばかり、弘法大師の作と言い伝えられ、13年に1度開扉していました。この像は文明18年(1485)に古刀禰川より出現し、村民が堂を建てて祀ってきたものを、建て直したのです。堂内に掛けられた葵紋付き戸帳1帳は、祐天上人がこの仏を熱心に信仰して寄進したものだと言われていました。また、祐天上人(あるいは了也とも)の自筆の名号も納められていたと記録されています。
2月、増上寺の袋谷の辺りが火事になりました。この辺りは学寮が建ち並ぶ区域で、袋谷の隣の南谷にも飛び火して慈全寮などは全焼してしまいました。袋谷は、かつて祐天上人と師匠である檀通上人がともに身を置かれていた寮があった場所です(慶安元年「祐天上人」参照)。