明顕山 祐天寺

年表

寛保3年(1743年)

祐天寺

仁王門に山号の額

7月9日、仁王門に山号「明顕山」の額を掛けました。筆跡は祐海、額の制作は芝宇田川に住む額林門入によるものです。額の大きさは縦3尺2寸(107センチメートル)、横7尺5寸(250センチメートル)です。額の裏には仁王門が竹姫の寄進であること、当住(住職)の祐海、当役(係)の祐説、納所の忍貞の名が記されています。

参考文献
『寺録撮要』2

阿弥陀堂の扁額

7月13日、祐海の筆になる「阿弥陀堂」の扁額が阿弥陀堂に掛けられました。制作は額林河門入です。縦2尺4寸(72センチメートル)、横5尺4寸8分(182センチメートル)で、裏には役僧の檀英(のちの祐天寺第4世檀栄)、祐説、納所の忍貞の名が見えます。

参考文献
『寺録撮要』2

吉宗、御成

10月14日、御鳥見の黒田甚九郎らが来寺し、18日に御成があることを告げ、寺内を見分しました。

同月17日、明18日に碑文谷筋御成につき祐天寺を御膳所とする旨の連絡があり、小普請方の青山忠兵衛ほかの役人がまいって準備をしました。今年から腰置きの取り立てはやめ、将軍は直ちに書院に通られることとなりました。

寺社奉行の大岡越前守からも御成の御膳所の仰せ付けがあり、火の元に注意するようお達しがありました。
18日の早朝、竹姫は饗応に使うようにと蒸籠3組、蒸菓子の入った御重1組を手紙を添えてくださいました。

吉宗は朝五つ時(午前8時頃)、金王通りより祐天寺表門を駕籠で入られました。御成御門外でお目見えし、上意をくださいました。吉宗は書院でしばらく休息し、それから徒歩で鷹狩の場所へ行き、九つ半時(午後1時頃)裏門より再び入御され、八つ半(午後3時頃)過ぎ、駕籠で還御されました。祐海はまた表門外でお目見えし、お言葉をかけていただきました。献上物は大根10本藁包み、ごぼう150本藁包み3包みで、これらを白木台下被い付きに載せ、ご披露のうえ伊奈半左衛門の取り計らいで村人足に本丸まで持たせました。今日のお供は若年寄の西尾隠岐守、御側衆の渋谷和泉守、松平肥前守らで、お供衆へも膳を出しました。竹姫からの組重も外箱のまま若年寄衆へ差し出すと、早速御前へ差し上げるようにとのことで、土岐大学よりご披露がありました。吉宗は、若年寄、御側衆、御小納戸、奥向きの面々へ拝領を仰せ付けられました。
御成が首尾良く済んだことを竹姫へ知らせ、増上寺役所へも届け出を済ませました。

19日、大岡越前守へ届け、各所へお礼回りしました。20日、祐海は大岡越前守より呼ばれ、銀5枚を拝領しました。祐海はその旨を各所へ届けて帰寺しました。

参考文献
『寺録撮要』4

説明

池田家と祐天寺

池田家は楠正行の子孫で、松平姓を許された名家です。池田光政は藩校を創るなどの名君として知られ、本多忠刻と千姫の間に生まれた娘と結婚しました。この夫婦の間に生まれた嫡男が池田綱政で、伊予守となりました。

綱政の法号が祐天寺の『本堂過去霊名簿』に見えます。法号は「曹源寺殿前羽林大将湛然徳峯大居士」で、「玉仙院御実父」と書き添えられています。法号の中の「曹源寺」とは、綱政が葬られた岡山の寺の名であり、綱政自身が開基した寺院です。
綱政のいく人かの子女のうち数人がやはり祐天寺の信者であったとみえ、『本堂過去霊名簿』にそれらの法号も見えます。

その1人はまず玉仙院です。玉仙院は山内豊房に嫁いでおり、法号は「玉仙院殿天蓮社法誉至心香曜大法尼」です。そののち土佐山内家(宝暦8年「説明」参照)が祐天寺の信者に多くなったのも、玉仙院の影響によるものだと思われます。
そのほか、毛利吉元の妻となった女子がおり、法号は「養心院殿浄室貞観大禅尼」です。毛利家(文政8年「説明」参照)も代々祐天寺に信仰を寄せた家です。

また、立花鑑任に嫁した女子がおり、法号は「馨香院殿蓮誉宝池□映大姉」です。立花氏もやはり祐天寺への熱心な信仰がうかがえる家系です(天明6年「説明」参照)。
このように、池田綱政の娘たちの婚家で祐天寺への信仰が根付き、広まっていったことを考えると、姻戚関係は信仰の伝播に非常に大きな役割を果たしていたと言えるでしょう。

参考文献
『本堂過去霊名簿』、『寛政重修諸家譜』
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