明顕山 祐天寺

年表

寛保2年(1742年)

祐天寺

億道、大蔵経を寄進

正月30日、祐天上人旧随の億道が遷化しました(正徳2年「祐天上人」参照)。遺骸は2月2日に、上大崎の増上寺下屋敷で荼毘に付され、祐海が参列しました。遺品の釈迦三尊像と黄檗版大蔵経は祐天寺に寄進されました〔この大蔵経はのちの宝暦8年(1758)に建立された経蔵に納められました〕。

参考文献
『本堂過去霊名簿』、『寺録撮要』1、「経蔵と夜余りの弥陀」(伊藤丈、『祐天ファミリー』6号、1996年4月)

祐海、蓮糸袈裟覚書を記す

祐海は2月、正徳5年(1715)に祐天上人が吉宗よりたまわった蓮糸の袈裟とその書付の由来(享保2年「祐天上人」参照)について認めました。

参考文献
『寺録撮要』3

刑部卿、御成

8月6日朝五つ時(午前8時頃)、刑部卿は表門から入って裏門を抜け、直ちに鷹狩の場所へ向かわれました。目黒不動で食事を済まされ、七つ時(午後4時頃)帰りの節、祐天寺に立ち寄られ、祐海が白銀1枚を拝領しました。供回りに酒膳を出し、しばらく内書院で休息されました。お帰りのときは祐海が表門までお見送りしました。お供は御守役の建部備前守らです。

参考文献
『寺録撮要』4

吉宗、御成

近々御成がある沙汰につき、10月20日に馬立てなどの取り立てが行われました。同月26日、明日来寺されるとのことで、小普請方そのほかの役人が来寺し、御腰置、御膳所仕切などを夜中に取り立てました。同日、寺社奉行堀田相模守より使者井沢定右衛門をもって明日の御成につき御膳所を仰せ付けられました。

翌27日早朝、竹姫より御成に用立てるようにと蒸籠3組、御提重1組が届けられました。晴天のもと、吉宗は碑文谷筋へ御成になり、道筋の渋谷金王通り表門より朝五つ時(午前8時頃)前、輿で入御されました。祐海は御成門外でお目見えしました。「住持出、おるか」と上意(お言葉)がありました。しばらく休息され、それから鷹狩の場所へ出掛けられました。鷹狩から戻られ九つ半時(午後1時頃)に再び祐天寺に入られました。八つ半時(午後3時頃)還御(お帰り)の節、表門外までお見送りし、祐海がお目見えしました。「天気克久しうて」と上意がありました。

本日の時の鐘はどのように打てば良いか、御側衆の渋谷和泉守に伺い、平常どおりで良いと言われ、そのとおりに打ちました。また、献上物は1尺(33.3センチメートル)回りの大根15本を1台と、ごぼう150本1台、いずれも青縄結藁包みで白木台下被い付きで献上しました。早速お披露目が済み、伊奈半左衛門が受け取り、釣台で村人が持って本丸へ運びました。

この日のお供衆は若年寄の板倉佐渡守、御側衆の渋谷和泉守、松平肥前守、御小納戸の土岐大学と中嶋大蔵、関権六らでした。若年寄、御側衆へは二汁五菜、そのほかには五菜などの酒膳を出しました。竹姫より下された菓子とお重も供しました。

28日に祐海は駕籠で出掛けて、板倉佐渡守、松平肥前守、渋谷和泉守、寺社奉行月番の堀田相模守と増上寺役所へお礼回りをしました。同日、竹姫の老女へ昨日のお礼を書状で申し上げたところ、豊岡らから返書が来ました。

29日、堀田相模守より呼ばれ、銀5枚を拝領しました。その旨を各所へ届け、帰寺しました。

30日、竹姫のご機嫌伺いに大根、長芋を、局の於津礼まで届けました。於津礼からその返書がありました。内容には、28日に局の萩原が恒例のご機嫌伺いに本丸へ行ったところ、吉宗が口上で竹姫からの菓子を祐天寺で召し上がり、満足の意を伝えられたことが書いてありました。竹姫はこのことを於津礼から祐海に知らせるように指示したのでした。

参考文献
『寺録撮要』4

祐天上人弟、助右衛門、寂

祐天上人の末弟である新妻助右衛門が寂しました。

参考文献
『本堂過去霊名簿』、『寺録撮要』1

竹姫、院号を変える

竹姫はすでに祐天上人より法号を受けていましたが(享保10年「祐天寺」参照)、差し障りがあり、改めたいとの意向が伝えられました。12月22日、祐海が新しく自筆で記してさしあげました。新しい法号は浄岸院殿信誉祐光大姉です。

参考文献
『寺録撮要』2
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