明顕山 祐天寺

年表

寛保元年(1741年)

祐天寺

天英院、逝去

2月27日、二の丸に住む天英院のお附きであるおふりから、女中を使いとして祐海に手紙が届けられました。天英院が昨日から病気にかかり、今日さらに容態が重くなったので百萬遍念仏を修するようにとの内容でした。祐海は即刻修行し、お札を直ちに使いの女中に渡しました。同夜、ご祈祷として一挺切念仏を修行し、翌28日の朝に御年寄へそのお札も届けました。

しかしそのかいもなく、天英院は28日の夕方に逝去なさいました。増上寺からの要請に従い祐海は、天英院が祐天上人から拝受していた法号「天英院殿光誉和貞大禅定尼」の写しを認めて送りました。また祐海は、天英院に重恩を受けていることから、葬所、増上寺に向かう葬列に加わりたい旨を申し出、許可されました。

天英院葬送の8日は晴天でした。祐海は暁七つ時(午前4時頃)駕籠で出て、六つ時(午前6時頃)増上寺方丈に参上しました。四つ時(午前10時頃)前にお迎えの僧侶は皆、平川門に着きました。しばらくして案内され、御座の間(天英院居室)御棺前で増上寺住職名代の伝通院蓮(連)察が初めに誦経念仏回向を行いました。蓮察はそのあと帰り、増上寺に詰めました。二の丸御殿はことのほか取り込み中につき、一同は御切手御番所へ帰って休息しました。

巳中刻(午前11時頃)に出棺の予定が何かと手間取り、ようやく午下刻(午後1時20分頃)になって出棺となりました。道筋は平川口より御城端通りを通って、一ツ橋へ出て、護持院跡であるお堀通りを本町へ出て、日本橋南伝馬町、銀座町、芝口、宇田川町を過ぎて浜松町より大門を入り、七つ時(午後4時頃)前に増上寺に到着しました。

導師尊誉了般が焼香し、それから葬儀が執り行われました。府内檀林の住職と天徳寺、誓願寺、祐天寺が焼香三拝を勤めました。葬儀のお迎えの僧侶は蓮察のほかに、洒水に学頭の順真、柄香炉に寺家伴頭の隆真院、御棺右の方に役者の念澄(潮)、左に祐海、提香炉に真海と祐益でした。

参考文献
『寺録撮要』3、『徳川実紀』9

天英院位牌、安置

4月1日、天英院のかねてからの希望によって位牌を祐天寺に納め、回向料として200両を下される旨のお達しがありました。祐海は老中、寺社奉行、御留守居、天英院附き用人らへお礼回りをし、その旨を増上寺へ届けました。また翌日、奥向きへもそのことをお知らせしました。

4月7日、仏師竹崎石見に申し付けたという、天英院の位牌の銘文の写しをくれるよう、河田甚太郎より連絡があり、使いの者にそれを渡しました。位牌の表には天英院の法号「天英院殿従一位光誉和貞崇仁大禅定尼」が書かれています。4月15日、酒井安芸守から回向料が下されました。位牌が祐天寺に納められたとき、玄関よりすぐに本堂中央に安置し、四誓偈念仏回向を修しました。それが終わってから祐海が自身で内仏殿へ移し、念仏回向し、床の間に簾を掛けて荘厳安置しました。

参考文献
『寺録撮要』3

天英院御座の間、拝領

4月6日、寺社奉行大岡越前守より呼び状が来て祐海が参上したところ、天英院御座の間をたたむにつき、材木を下さるということでした。早速、老中の松平左近将監、寺社奉行の牧野越中守、大岡越前守、本多紀伊守、山名因幡守へお礼回りをし、増上寺へ届けて帰寺しました。翌7日、本丸の老女方はじめ月光院、竹姫、法心院、蓮浄院らへ拝領のことをお知らせしました。

同月22日、小普請奉行の曲渕越前守配下の役人である有田佐内が来寺し、材木は明後日より渡すことを言い渡されました。そのために必要な、祐天寺役僧である檀英、祐説、納所忍貞の3名の判鑑(判が本物かどうか確かめるための見本)を渡しました。今回の御座の間係の役人は小普請方の曲渕越前守、岡崎治兵衛、同組下の有田佐内、千賀源左衛門、清水平内です。23日、内藤越前守へ頼みおいた御座の間の絵図が届きました。
二の丸より材木をいただく件について、世話を相屋長右衛門、加賀屋勘兵衛に頼んでおきましたが、24日早朝より搬入が始まりました。一部を挙げるだけでも55畳の大紋縁畳、96畳の紺縁畳、36本の引手かきかね付き襖、38本の塗かまちの御腰障子など、その量は莫大なものでした。

5月21日、小普請方の要請により祐海から、拝領の材木が確かに運び込まれたという記文証形を差し出しました。翌22日、祐海は各所へ材木拝領のあいさつをしました。

参考文献
『寺録撮要』2

刑部卿、御成

8月1日、刑部卿(幼名小五郎。一橋家創始者、宗尹。享保19年「祐天寺」参照)が明日、目黒筋へ鷹狩の折に御成になる旨が、小普請方より連絡があり、腰置きが据えられました。寺社奉行からも伝達がありました。

翌2日の朝五つ時(午前8時頃)過ぎ、刑部卿は祐天寺の表門より入られましたが、直ちに裏門へ抜けて鷹狩の場所へ行き、立ち寄られませんでした。そこで四つ時(午前10時頃)頃より腰置きなどを取り払い、小普請方の役人は帰りました。すると八つ時(午後2時頃)過ぎ、帰り道に刑部卿が寺内を通行されるとき、立ち寄られる旨の連絡がありました。やがて八つ半時(午後3時頃)、刑部卿はまたお出になり、居休み屋横手口より御成道を通り、すぐに書院に入って休まれました。

献上物は唐芋35本、青菅包み。拝領物は銀子1枚。お供回りの用人の河野忠左衛門、お守役の平井宮内らへは内玄関で酒膳を出しました。七つ時(午後4時頃)過ぎに帰られました。
翌3日、祐海は各所へ御成のお礼回りをし、増上寺へもその旨を届けました。

参考文献
『寺録撮要』4

人物

天英院

寛文2年(1662)~寛保元年(1741)

関白近衛基煕の娘として生まれた天英院は、照姫と称しました。諱は煕子です。延宝7年(1679)6月に江戸の桜田御殿の徳川綱豊(のちの家宣)と婚姻が決まり、12月1日に輿入れしました。そのとき綱豊は甲府城主時代でした。

天英院は天和元年(1681)桜田御殿で豊姫を出産します。しかし、翌年(1682)その姫は早世し、小梅常泉寺に葬ることとなります。また、元禄12年(1699)には男子を出産しますが即日逝去してしまい、やはり常泉寺に葬るのでした(法号は夢月院殿)。子供のいない寂しさをいやすためか、兄弟の近衛家煕の娘の政姫を元禄16年(1703)11月に養女に迎えますが、宝永元年(1704)にこの姫も逝去し、またも常泉寺に葬りました。

宝永元年(1704)、綱豊が5代将軍 綱吉の養子に決まった(名も家宣と改めた)ため、江戸城西の丸の大奥へ入りました。宝永6年(1709)6月19日に天英院は従三位となり、11月2日に本丸へ入りました。
家宣薨去ののちの正徳2年(1712)10月21日落飾し、天英院と号しました。

正徳3年(1713)4月2日には従一位に任ぜられ、一位さまと称されました。同年、文昭院殿(家宣)追福のため、祐天上人に請うて黒本尊を江戸城に迎え、これを拝しました(正徳3年「祐天寺」参照)。これが記録としては祐天上人とのはっきりとした接触の始まりで、この機会に上人への信仰を深めたと思われます。

天英院は京出身のため周りの女中にも京出身者が多く、その気風はほかの江戸出身の側室たちとは異なっていたと想像されます。そのため夫君没後は後継者の家継の母である月光院との対立がささやかれた時期もありましたが、これは噂の域を出ないものです。

徳川家継 没後の将軍継承問題で天英院は紀伊家 徳川吉宗を推したため、吉宗公が8代将軍になってからも厚遇されました。享保2年(1717)12月15日、西の丸へ入りました。

享保14年(1729)の文昭院殿17回忌には、祐天寺に釣鐘と釣鐘堂を寄進しました(享保14年「祐天寺」参照)。

享保16年(1731)9月27日、二の丸へ入りました。寛保元年2月28日に同所で逝去し、増上寺に葬られました。80歳でした。逝去後、二の丸内の天英院御座の間は解体され、天英院が生前に深く信仰していた祐天寺に寄贈されました〔天英院仏殿や書院などの材料に用いられました(延享2年「祐天寺」参照)〕。また、生前の希望により、位牌も祐天寺に納められたのでした(「祐天寺」参照)。

参考文献
『寺録撮要』2・3、『朝日日本歴史人物事典』、『徳川幕府家譜(『徳川諸家系譜』1)
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