2月晦日、祐海の兄の新妻小左衛門政明が没しました。法号は法誉良如順性大徳です。隠居して河内と名乗り、出家してからは順性と号していました。なお、政明の妻は享保7年(1722)5月6日に没しています。法号は性誉智法信女です。
助説とは、寺院の住職が行うべき説法を、ほかの僧を雇って代行させることを言います。助説は不真面目な説法であり、仏の教えを損ない、浄土宗門を衰えさせるものであるとして取り締まられていました。しかし無許可で助説を行う者が多いので、ついにこの年の8月に増上寺は、山内の所化僧に対し、許可なく助説を行った者は厳しく処罰するという法令を出し、同時に諸寺院へも同様のことが申し渡されました。
正月24日、恒例に従い将軍吉宗は増上寺にある台徳院殿(秀忠)、文昭院殿(家宣)、有章院殿(家継)の霊廟に参詣しました。このとき御三家の紀伊中納言宗直も参詣しました。
また同日、大納言家重(のちの9代将軍)は紅葉山(正徳4年「祐天上人」参照)の歴代将軍の霊廟に参詣しました。
並木宗輔(宝暦元年「人物」参照)作の浄瑠璃『ひばり山姫捨松』が、2月に大坂豊竹座で初演されました。この演目は通称「中将姫」と言い、大和当麻寺に伝わる中将姫伝説をもととしています。継母にいじめられる中将姫が、雪の中で責められる場面〔責め場(「解説」参照)〕が特に有名です。美女を雪中で責めさいなむ「雪責め」の趣向は、ほかの作品でも多く採り入れられるようになりました。