4月18日、四谷了学寺住職の天歴が遷化しました。祐天上人の弟子分だった人物で、法号は灌蓮社頂誉上人祐阿天歴和尚です。
真乗院初代住職の億道(正徳2年「祐天上人」参照)が隠居しました。こののち真乗院住職は増上寺住職が任命しました。
知恩院第4世門跡の尊胤法親王が入寂しました。尊胤法親王は霊元天皇の第15皇子で、悦宮と言いましたが、5歳で知恩院へ入山し、享保11年(1726)に将軍吉宗の猶子となりました。
元文3年(1738)6月9日、将軍綱吉の側室お伝の方(元禄5年「人物」参照)が逝去されました。法号は瑞春院殿列誉凉地大禅定尼です。
そして、この年の6月9日に瑞春院殿の1周忌法要が増上寺で営まれ、松平備中守正貞が代参しました。導師を勤めた了般をはじめ、僧衆たちにも布施物をたまわりました。
石田梅岩(享保14年「人物」参照)著の心学の書。田舎から出てきた人が京の梅岩を訪れて疑問を尋ねて、梅岩がそれを解決していくという形式で書かれています。「性」を心の軸と考えた巻3「性理問答の段」は特に有名です。本書は心学運動のバイブルとして長く読まれました。
享保18年(1733)11月に尾張の闇森八幡社で実際に起こった心中未遂事件をモデルにした浄瑠璃『睦月連理椿心』は、翌19年(1734)正月から黄金薬師で上演されると大人気を博しました。この浄瑠璃を作ったのが宮古路豊後掾で、享保20年(1735)春には江戸の中村座でも上演され、ここでも大当たりを取りました。享保8年(1723)に大岡越前守が出した、心中物浄瑠璃禁止令を破っての上演でしたが、豊後節は江戸の人々の間に大流行し、豊後掾の髪型や長羽織までが真似されるほどの人気を呼んだのです。しかし元文4年9月、豊後節の歌詞が心中や家出の流行を招いたとして禁止されました。豊後掾は掾号を返上し、翌5年(1740)没しました。
藤本斗文作の累物の歌舞伎『累解脱蓮葉』が、7月15日から市村座で初演されました。
累物の歌舞伎『曽我累物語』が初演されました。これは藤本斗文、津打九平次の合作です。