明顕山 祐天寺

年表

元文04年(1739年)

祐天上人

天歴、遷化

 4月18日、四谷了学寺住職の天歴が遷化しました。祐天上人の弟子分だった人物で、法号は灌蓮社頂誉上人祐阿天歴和尚です。

参考文献
『本堂過去霊名簿』、『寺録撮要』1

真乗院億道、隠居

 真乗院初代住職の億道(正徳2年「祐天上人」参照)が隠居しました。こののち真乗院住職は増上寺住職が任命しました。

参考文献
「異彩を放つ亀の台座―真乗院歴代の墓(第一墓地)―」、『縁山志』3(『浄土宗全書』19)

寺院

知恩院門跡尊胤法親王、入寂

 知恩院第4世門跡の尊胤法親王が入寂しました。尊胤法親王は霊元天皇の第15皇子で、悦宮と言いましたが、5歳で知恩院へ入山し、享保11年(1726)に将軍吉宗の猶子となりました。


瑞春院殿1周忌

 元文3年(1738)6月9日、将軍綱吉の側室お伝の方(元禄5年「人物」参照)が逝去されました。法号は瑞春院殿列誉凉地大禅定尼です。
 そして、この年の6月9日に瑞春院殿の1周忌法要が増上寺で営まれ、松平備中守正貞が代参しました。導師を勤めた了般をはじめ、僧衆たちにも布施物をたまわりました。

参考文献
『浄土宗大年表』、『徳川実記』8、『徳川諸家系譜』

風俗

徳川宗春の隠居謹慎

 正月12日、尾張国(愛知県)尾張藩主徳川宗春(「人物」参照)は、藩主としての身の行跡が正しくないとして、隠居謹慎するよう命じられました。宗春は、代を継いだ翌享保16年(1731)に自らの施政方針を示した『温知政要』を著し、その中で法令が多いことは良くないとか、倹約は無駄を生じることになるなどと将軍吉宗の倹約主義の治政を批判し、遊郭の設置や武士の芝居見物を許したり、盆踊りなどの祭りを派手に執り行うことを奨励したりしたのです。宗春自身も派手好みの性格であり、吉宗の政策に真っ向から対立したため、享保17年(1732)には倹約令に違反したとして幕府から詰問を受けます。このときはうまく言い逃れましたが、しだいに藩財政が乏しくなり、風俗頽廃もあらわになったため、ついに制裁が下されたのでした。
 尾張徳川家という御三家に対する処罰にしては厳しいものでしたが、宗春は抵抗することなくこれを受け入れて名古屋城三の丸の屋敷で死ぬまで謹慎の身となりました。宗春の死後も謹慎処分は続き、その墓石には金網が掛けられて、これが解かれるのは没後75年の天保10年(1839)のことです。


青木昆陽の登用

 3月に青木昆陽(享保20年「人物」参照)が、十人扶持の御奥留守支配・御書物御用達として幕臣に登用されることになりました。昆陽は、享保の虫害飢饉(享保17年「事件・風俗」参照)の際、救荒作物(米などが不足した場合の代用食物)としてサツマイモ(甘藷)を挙げ、薩摩芋御用掛としてこれの試作に当たった人物です(享保20年「事件・風俗」参照)。幕府は、このサツマイモ試作の成功と、さらに昆陽の博識を讃えて昆陽を召し出し、古文書の蒐集や調査などを行わせました。延享元年(1744)には紅葉山火之番、延享4年(1747)には評定所儒者となって将軍家重にも拝謁します。明和4年(1767)には御書物奉行にまで昇進していきました。


ロシア船の出没

 5月下旬、陸奥国(宮城県)・安房国(千葉県)の沿岸に異国船が現れました。陸奥国牡鹿郡の離島や海岸沿いの漁村を中心に出没した船は、一時期そこへ停泊すると、船員たちが沿岸の村の人々と接触してきました。村民たちを船へ上げて船内を見せたり食事を出して歓待するなど、ささやかな交流も見られたようです。陸奥国に現れた船は3隻。いずれも船体は黒く巨大で、船員たちはおおむね赤毛に赤目、毛皮を着ていたという記録があります。同時期に安房国の天津村に現れた船もおおむね同じもので、ここでは異国人たちは水や食料を求め、代価として銀貨とビー玉のようなものを置いていきました。この銀貨により、異国船がモスコビア(現在のロシア)からやってきたことが判明するのです。
 寛永16年(1639)に鎖国体制を完成させ、海外との交流はオランダ国のみとなっていた日本では、この異国船の来航に神経をとがらせました。断続的に領内に異国船が来航した仙台藩では藩主が参勤交代で不在でしたが、残った者たちで話し合い軍勢を組んで異国船のもとへ押し寄せました。一方、各地からの報告により異国船来航の事実を知った幕府は、6月に全国の海岸沿いの諸大名に、異国人が上陸してきたらこれを捕らえるよう異国船警戒の命を出します。当時のロシアはピョートル大帝(「解説」参照)の独裁体制下にあり、大帝は領土拡張のために太平洋側への進出をもくろんでいました。その足掛かりとして日本を重要視し、いわば探りを入れるために探検船を差し向けたようです。

参考文献
『年表日本歴史』5、『徳川吉宗』(歴史群像シリーズ41)、『朝日日本歴史人物事典』、『読める年表』、『元文世説雑録』(森銑三ほか監、続日本随筆大成別巻『近世風俗見聞集』1、吉川弘文館、1981年)、『元文の黒船』(安部宗男、宝文堂、1989年)

出版

『都鄙問答』/h4>
 石田梅岩(享保14年「人物」参照)著の心学の書。田舎から出てきた人が京の梅岩を訪れて疑問を尋ねて、梅岩がそれを解決していくという形式で書かれています。「性」を心の軸と考えた巻3「性理問答の段」は特に有名です。本書は心学運動のバイブルとして長く読まれました。


豊後節、禁止

 享保18年(1733)11月に尾張の闇森八幡社で実際に起こった心中未遂事件をモデルにした浄瑠璃『睦月連理椿心』は、翌19年(1734)正月から黄金薬師で上演されると大人気を博しました。この浄瑠璃を作ったのが宮古路豊後掾で、享保20年(1735)春には江戸の中村座でも上演され、ここでも大当たりを取りました。享保8年(1723)に大岡越前守が出した、心中物浄瑠璃禁止令を破っての上演でしたが、豊後節は江戸の人々の間に大流行し、豊後掾の髪型や長羽織までが真似されるほどの人気を呼んだのです。しかし元文4年9月、豊後節の歌詞が心中や家出の流行を招いたとして禁止されました。豊後掾は掾号を返上し、翌5年(1740)没しました。

参考文献
『日本古典文学大辞典』、「演劇目録と上演年表」(中山幹雄、『江東史談』214号、1985年)、「累狂言の趣向の変遷―『伊達競阿国戯場』」(東晴美、『文学研究紀要』別冊第20集、早稲田大学大学院、1993年)、「南北累物作劇考」(高橋則子、『文学』、1987年4月号)

芸能

『累解脱蓮葉』初演

 藤本斗文作の累物の歌舞伎『累解脱蓮葉』が、7月15日から市村座で初演されました。


『曽我累物語』初演

 累物の歌舞伎『曽我累物語』が初演されました。これは藤本斗文、津打九平次の合作です。

参考文献
『日本古典文学大辞典』、「演劇目録と上演年表」(中山幹雄、『江東史談』214号、1985年)、「累狂言の趣向の変遷―『伊達競阿国戯場』」(東晴美、『文学研究紀要』別冊第20集、早稲田大学大学院、1993年)、「南北累物作劇考」(高橋則子、『文学』、1987年4月号)

人物

徳川宗春 元禄9年(1696)~明和元年(1764)

 徳川宗春は元禄9年10月28日、尾張家第3代の綱誠の第20番目の男子として生まれました。母は三浦太郎兵衛の娘、のちの宣揚院です。幼名は万五郎。宝永5年(1708)松平通春と名乗りました。
 正徳3年(1713)に出府し、何年かの江戸暮らしを経験しました。華やかな都会の人々に触れ、都市の楽しみを享受したことが、後年尾張藩主になってからの宗春の政治に影響を与えたと考えられます。享保元年(1716)には江戸城に登城し、将軍家継に初めてお目見えしています。
 宗春が長い部屋住み時代を終えたのは、享保14年(1729)でした。陸奥国梁川(福島県伊達郡梁川町)の尾張徳川家の支族である大久保家が断絶したため、3万石の領地を受け継いだのです。また、この年に長男万五郎が生まれ、めでたいことが重なりました。
 宗春の運命に急変が起きたのは翌享保15年(1730)です。11月27日、尾張家6代藩主である兄の継友が39歳で急逝したのです。世継ぎのいない継友の後継者は、宗春しかいませんでした。宗春は御三家筆頭尾張家の主となったのです。翌享保16年(1731)正月19日には従三位左近衛中将に任じられ、このとき通春を宗春と改名します。36歳でした。
 この年宗春は、施政方針を示した書『温知政要』を著し、家中の者に配りました。この書には荻生徂徠(享保13年「人物」参照)の影響が表れています。この中で宗春は、厳しい倹約令を敷いていた8代将軍吉宗と幕府に対する当てこすりとも思える言を吐いています。例えば、「国に法令の多いのは恥辱の基である」「すべて人には衣服食物をはじめ、さまざまなことにおいて好き嫌いのあるものなのに、自分の好悪を人にも押し付けようとするのは狭い了見であり、人の上に立つ者がするべきことではない」などの箇所です。同年4月には初めてお国入りし、そののち打ち出した政策も、幕府の政策と真っ向から対立するものでした。簡略化されていた東照宮祭の盛大な復興、家中藩士の芝居見物の許可などです。
 享保18年(1733)に菩提寺建中寺に参詣した折には2間(約3.6メートル)余りの長ギセルを使用してみせ、人々の度肝を抜いたと言われます。また、この年11月下旬に闇森八幡社で心中未遂事件がありました(「出版・芸能」参照)。飴屋町の遊郭花村屋の遊女小さんと日置の畳屋喜八が添えないことを嘆いて起こしたのです。この裁きとして宗春は、2人を3日間さらしただけで親元に帰しました。これは当時としては異常に軽い罰だったのです。『温知政要』の中で「千金も身分の低い人間1人の命には換えがたい」と述べた、宗春ならではの処置でした。
 このような目に余る挙動を重ねた宗春に、ついに吉宗の制裁が下されました。元文4年、突如として宗春は隠居謹慎を命じられたのです(「事件・風俗」参照)。処分は25年後の明和元年に宗春が69歳で逝去しても解けず、その墓には金網が掛けられたのでした。
 罪人として世を去った宗春でしたが藩内の人気は高く、宝暦11年(1761)に建中寺参詣のため外出を許されたときには藩士、町人たちがお祝いに馳せ参じたそうです。一時期であれ尾張の繁栄期を築いた宗春の政治を人々は懐かしみ慕っていたのでした。
 なお、宗春側室であり、八百姫、竜治代(いずれも早世)の母である民部方(のちの螢光院)は祐天寺に信仰を寄せており、逝去後は祐天寺に葬られました(享保4年「説明」・宝暦7年「祐天寺」参照)。

参考文献
『徳川宗春―よみがえる自由人のこころ―』(名古屋市市民局広報課、1996年)、『徳川宗春 尾張宰相の深謀』(加来耕三、毎日新聞社、1995年)、『徳川吉宗』(歴史群像シリーズ41)、『尾張の宗春』(亀井宏、東洋経済新報社、1995年)、『徳川諸家系譜』2、『本堂過去霊名簿』
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