明顕山 祐天寺

年表

元文4年(1739年)

祐天寺

天歴、遷化

4月18日、四谷了学寺住職の天歴が遷化しました。
祐天上人の弟子分だった人物で、法号は灌蓮社頂誉上人祐阿天歴和尚です。

参考文献
『本堂過去霊名簿』、『寺録撮要』1

真乗院億道、隠居

真乗院初代住職の億道(正徳2年「祐天上人」参照)が隠居しました。こののち真乗院住職は増上寺住職が任命しました。

参考文献
「異彩を放つ亀の台座―真乗院歴代の墓(第一墓地)―」、『縁山志』3(『浄土宗全書』19)

芸能

『累解脱蓮葉』初演

藤本斗文作の累物の歌舞伎『累解脱蓮葉』が、7月15日から市村座で初演されました。

参考文献
「演劇目録と上演年表」(中山幹雄、『江東史談』214号、1985年)、「累狂言の趣向の変遷―『伊達競阿国戯場』」(東晴美、『文学研究紀要』別冊第20集、早稲田大学大学院、1993年)、「南北累物作劇考」(高橋則子、『文学』、1987年4月号)

『曽我累物語』初演

累物の歌舞伎『曽我累物語』が初演されました。これは藤本斗文、津打九平次の合作です。

参考文献
「演劇目録と上演年表」(中山幹雄、『江東史談』214号、1985年)、「累狂言の趣向の変遷―『伊達競阿国戯場』」(東晴美、『文学研究紀要』別冊第20集、早稲田大学大学院、1993年)、「南北累物作劇考」(高橋則子、『文学』、1987年4月号)

人物

徳川宗春

元禄9年(1696)~宝暦11年(1761)

徳川宗春は元禄9年10月28日、尾州家第3代の綱誠の第20番目の男子として生まれました。母は三浦太郎兵衛の娘、のちの宣揚院です。幼名は万五郎。宝永5年(1708)松平通春と名乗りました。

正徳3年(1713)に出府し、何年かの江戸暮らしを経験しました。華やかな都会の人々に触れ、都市の楽しみを享受したことが、後年尾張藩主になってからの政治に影響を与えたと考えられます。享保元年(1716)には江戸城に登城し、将軍家継に初めてお目見えしています。

宗春が長い部屋住み時代を終えたのは、享保14年(1729)でした。陸奥国梁川(福島県伊達郡梁川町)の尾張徳川家の支族である大久保家が断絶したため、3万石の領地を受け継いだのです。また、この年に長男万五郎が生まれ、めでたいことが重なりました。

宗春の運命に急変が起きたのは翌享保15年(1730)です。11月27日、尾州家6代藩主である兄の継友が39歳で急逝したのです。世継ぎのいない継友の後継者は、宗春しかいませんでした。宗春は御三家筆頭尾州家の主となったのです。翌享保16年(1731)正月19日には従三位左近衛中将に任じられ、このとき通春を宗春と改名します。36歳でした。

この年宗春は、施政方針を示した書『温知政要』を著し、家中の者に配りました。この書には荻生徂徠の影響が表れています。この中で宗春は、厳しい倹約令を敷いていた8代将軍吉宗と幕府に対する当てこすりとも思える言を吐いています。例えば、「国に法令の多いのは恥辱の基である」「すべて人には衣服食物をはじめ、さまざまなことにおいて好き嫌いのあるものなのに、自分の好悪を人にも押し付けようとするのは狭い了見であり、人の上に立つ者がするべきことではない」などの箇所です。同年4月には初めてお国入りし、そののち打ち出した政策も、幕府の政策と真っ向から対立するものでした。簡略化されていた東照宮祭の盛大な復興、家中藩士の芝居見物の許可などです。

享保18年(1733)に菩提寺建中寺に参詣した折には2間(約3.6メートル)余りの長ギセルを使用してみせ、人々の度肝を抜いたと言われます。また、この年11月下旬に闇森八幡社で心中未遂事件がありました。飴屋町の遊郭花村屋の遊女小さんと日置の畳屋喜八が添えないことを嘆いて起こしたのです。この裁きとして宗春は、2人を3日間さらしただけで親元に帰しました。これは当時としては異常に軽い罰だったのです。『温知政要』の中で「千金も身分の低い人間1人の命には換えがたい」と述べた、宗春ならではの処置でした。

このような目に余る挙動を重ねた宗春に、ついに吉宗の制裁が下されました。元文4年、突如として宗春は隠居謹慎を命じられたのです。処分は25年後の明和元年(1764)に宗春が69歳で逝去しても解けず、その墓には金網が掛けられたのでした。

罪人として世を去った宗春でしたが藩内の人気は高く、宝暦11年(1761)に建中寺参詣のため外出を許されたときには藩士、町人たちがお祝いに馳せ参じたそうです。一時期であれ尾張の繁栄期を築いた宗春の政治を人々は懐かしみ慕っていたのでした。

なお、宗春側室であり、八百姫、竜治代(いずれも早世)の母である民部方(螢光院)は祐天寺に信仰を寄せており、逝去後は祐天寺に葬られました(享保4年「説明」・宝暦7年「祐天寺」参照)。

参考文献
『徳川宗春―よみがえる自由人のこころ―』(名古屋市市民局広報課、1996年)、『徳川宗春 尾張宰相の深謀』(加来耕三、毎日新聞社、1995年)、「徳川宗春 吉宗に反抗した名古屋の主」(小池富雄、歴史群像シリーズ『徳川吉宗』)、『尾張の宗春』(亀井宏、東洋経済新報社、1995年)、『徳川諸家系譜』2、『本堂過去霊名簿』
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