明顕山 祐天寺

年表

元文03年(1738年)

祐天寺

永世十二時鐘、開始

文昭院殿(家宣)17回忌の折に天英院が寄進した釣鐘(享保14年「祐天寺」参照)を、27回忌にあたるこの年の10月14日の祥月命日に、これからは十二時(2時間ずつ1昼夜)に怠りなく撞くよう命じられました。これ以後は毎日時の鐘として撞くよう仰せ渡されたのでした。またその際に、祐海には金錦の九條袈裟をたまわりました。

参考文献
『寺録撮要』1、『祐天寺二世祐海上人和字略伝』

天英院、文昭院殿位牌を納める

この年に天英院は、文昭院殿位牌を祐天寺に納めました。その際、御紋付き高張り提灯1対も寄進されました(享保13年「祐天寺」参照)。

参考文献
『寺録撮要』2

仁王(二王)像、安置

2月5日、寺社奉行牧野越中守より明日の寄り合いに参席するよう、達しがありました。祐海が寄り合いの場所である松平紀伊守邸へ参上したところ、牧野越中守より仁王安置の許可が仰せ渡されました。祐海は寺社奉行に残らずお礼回りをし、その旨を増上寺に届け、竹姫にもお知らせしました。願書を出してから4年目のことです。仏師竹崎石見にも、寺社方は済んだのでそちらから町奉行へ願うよう連絡しました。
2月13日、仁王安置供養(3月8日~10日)の願書を牧野越中守へ持参し、役人田中小右衛門に渡しました。18日、供養が許されました。
3月8日の朝は小雨が降っていましたが、四つ時(午前10時頃)より快晴となり、仁王安置供養の法要が行われました。巳中刻(午前10時30分頃)、本堂より仁王門まで練供養が行われました。主な役割は次のとおりです。導師は祐海。座検に祐益、祐達、檀英、祐説。侍者に祐然、祐雄。洒水に南蓮寺。華籠に大吉寺、善導寺ほか。祐海は「執金剛神鎮座の意趣ならびに祈願の誦文」を読み上げました。
8日には高松殿より、警護のために小笠原喜之丞、足軽12人が遣わされました。9日、10日には夏川兵部少輔殿より小頭1人、目付2人、足軽12人を派遣されました。
施主の竹姫からは代参おとみ、そのほか本丸の老女豊岡が参詣しました。また、森川悠斗より代参、尾張家民部方(享保4年「説明」参照)より代参兼野と桜崎、土佐山内家玉仙院(宝暦8年「説明」参照)より代参倉はし、そのほか水戸家養仙院(「説明」参照)、法心院、蓮浄院より代参がありました。黒田甲斐守(宝暦5年「説明」参照)奥方よりは岡崎が代参しました。
10日の回向が終わってのち、惣衆と取り持ち中へ饗応一汁五菜を出し、施物を下しました。
11日に寺社奉行御懸かりの牧野越中守より見分役が来寺し、滞りなく済みました。また、12日には越中守と増上寺へ仁王供養終了を届けました。また、仏師竹崎石見へ仁王造立の祝儀を遣わしました。

参考文献
『寺録撮要』2

祐億、遷化

7月20日、祐億が遷化しました。祐天上人の随従で白金正源寺住職でした。法号は玄蓮社捜誉上人祐億和尚です。

参考文献
『本堂過去霊名簿』

祐全兄、寂

8月5日、祐全(のちの祐天寺第6世)の兄、新妻喜兵ヱが没しました。

参考文献
『本堂過去霊名簿』

説明

水戸家養仙院

八重姫と呼ばれた養仙院は、京の鷹司左大臣兼煕の姫として誕生しました。綱吉御台所の姪にあたる縁から養女の話が持ち上がり、3歳のとき江戸へ下向しました。7年後元禄11年(1698)水戸家徳川吉孚へ嫁ぎ、目白屋敷へ、のち根津屋敷へ入りました。宝永6年(1709)吉孚逝去後は落飾して養仙院と号し、延享3年(1746)57歳で逝去します。寛永寺に葬られ、法号を随性院とおくられました。

養仙院は仁王供養に代参を立てている(「祐天寺」参照)ほか、その侍女たちの中には祐天寺に位牌を納めている者も多く、養仙院が祐天寺に信仰を寄せていたことがしのばれます。また、養仙院の実父(法号は圓理院融性日諦居士)の位牌も納められています。

参考文献
『本堂過去霊名簿』、『徳川幕府家譜』(『徳川諸家系譜』1)、『幕府祚胤伝』(『徳川諸家系譜』2)

寺院

真察、知恩院住職に

4月に遷化した往的に代わり、鎌倉光明寺の真察が知恩院第49世となりました。また、真察は住職任命の翌月には大僧正にも任じられました。知恩院住持任命と同時に大僧正に任命されるようになるのは、真察の代から始まったと言います。7年の在任中には数十冊の著作をなし、遷化の際は右手に数珠を持ち左手に阿弥陀経を持って、仏名を称えながら眠るように遷化したそうです。


了般、増上寺住職に

12月、退職した頓秀に代わって増上寺第42世となったのは鎌倉光明寺了般でした。了般は光明寺で真察の後住ですから、わずか8か月でまた転住となったわけです。了般はかつて増上寺において、5代将軍綱吉とその生母桂昌院の帰依が篤かった了也のもとで学び、その優秀さの噂は他山にも及んだと言われています。

参考文献
『知恩院史』(藪内彦瑞編、知恩院、1937年)、『日本仏家人名辞書』(鷲尾順敬、東京美術、1982年)、『縁山志』10(『浄土宗全書』19)

出版

『庶物類纂』

稲生若水・丹羽正伯の2人により編集された本草学の書物で、1、000巻と増補54巻から成ります。元文3年に成立しました。若水は本草学の祖とも言われ、幼い頃から動植物を好んで自ら山野を歩いて実地に動植物の鑑識力を養ったと言います。『庶物類纂』は始めは、当時本草学の典拠とされた明の李時珍の『本草綱目』で取りこぼしたものを補う目的で、加賀藩主前田綱紀に命じられて若水が編述したものでした。しかし、予定の1、000巻に達しないうちに若水は死去してしまいます。それがのちに将軍吉宗の目に触れ、幕府医官の正伯が増補編集を命じられ、完成させたのです(享保19年「事件・風俗」参照)。若水編のものは362巻、草木花味果鱗介羽毛の9類1、180種で、正伯編のものは638巻と増補、水火土石金玉竹殻などの17類2、410種です。しかし、これらの大著は官庫に納められてしまい、一般の学者の目に触れることはありませんでした。

参考文献
『国史大辞典』、『日本古典文学大辞典』、『年表日本歴史』5
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