4月15日(祐海像腹内墨書では5日)、祐海の弟子である祐益(のちの祐天寺第3世)、祐達、檀英(のちの檀栄、祐天寺第4世)、祐説、祐然、祐雄らにより、祐海の56歳寿像が造立されました。法橋竹崎石見の作です。祐海はこの像を内仏の脇に安置し、毎日三時と五時には自ら十念を授けました(文化5年・文政12年・天保元年「祐天寺」参照)。
田安家の徳川宗武室である宝蓮院は熱心な祐天寺の信者でしたが、その父の近衛家久が8月17日に逝去しました。家久は関白の近衛基煕の孫であり、天英院の甥にあたります。宝蓮院が祐天寺に信仰を寄せたのも、大叔母である天英院の影響からかもしれませんし、また於古牟の方以来の田安家の伝統によるところもあるでしょう(宝暦6年「説明」参照)。
10月24日に増上寺役者より、明日寺社奉行大岡越前守邸へ参上するよう、伝達がありました。翌日祐海が赴いたところ、書付で以下の仰せ渡しがありました。
一、鷹狩に御成の節に献上物を差し上げる寺院があるが、その年初めての御成の
ときは良いが、以降は無用のこと
二、供の者に料理等を出す寺院があるが、その年初めての御成の場合は良いが、
以降は無用のこと
ただし住職が代わった場合は、その年2度目の御成の際でも構わないとのことでした。祐海は右の内容を増上寺にも伝え届けて帰寺しました。
能の『累』が初演されました。福王盛有の作で、「我をにくみてたばかりの。秋の重荷の刈草に。(中略)荷ひし儘に水底に。沈められにし其恨。夫に憂目を見せじと。後の妻をも幾人となく。空敷なせしぞや」とあり、実話に基づいて書かれた『死霊解脱物語聞書』(元禄3年「出版」参照)にほぼ忠実なものでした。