明顕山 祐天寺

年表

元文元年(1736年)

祐天寺

准3世檀的、遷化

8月4日、檀的が遷化しました。法号は顕蓮社法誉上人愚阿檀的和尚です。新妻重春(宝永元年「祐天寺」参照)の嫡男で、祐天上人の妹の孫にあたります(宝暦10年「新妻家略系図」参照)。祐天上人の弟子として修行を積みました。享年41歳、法臘(出家してからの年数)は32年でした。増上寺一文字席(享保10年「解説」参照)に列していました。孤雲室(宝永5年「説明」参照)の寮主でもあったようです。祐天寺への貢献が大きく、宝暦3年(1753)7月4日には准3世が追贈されました。

参考文献
『本堂過去霊名簿』、『寺録撮要』1、『縁山志』8(『浄土宗全書』19)

大森薬師堂の土地

12月、北大森村地主嘉右衛門より畑地を買い取り、大森薬師堂(享保16年「祐天寺」参照)の地所としました。また同月、西大森村覚左衛門所持の土地を買い取り、これも薬師堂の地所としました。

参考文献
『寺録撮要』5

無能寺扁額

この年、奥州桑折(福島県)無能寺に寺号額、位牌、御台天目が寄進されました。扁額は祐海の染筆で、位牌、御台天目は松姫(享保4年「人物」参照)の母の利清院が、松姫の菩堤のために作りおいたものと記録されていますが、現在は確認されていません。無能寺にはほかに、祐天上人念珠も所蔵されていました。

参考文献
『信夫伊達寺社修験録聞書』(福島県立図書館蔵)、『信達風土雑記』(同上蔵)、『伊達郡村誌』2(同上蔵)

寺院

知恩院門跡御殿の移転

6月、知恩院から諸檀林へ門跡御殿を移転するとの内達がありました。それまでの門跡御殿は承応年間(1652~1654)に仮殿として建てられたもので、その建物は方丈にも劣り、湿地にあるために難儀を強いられていました。それまでの門跡は早世であったために、なかなか仮殿の建て直しができませんでしたが、尊胤法親王の代にようやくそれがかなえられたのでした。

参考文献
『山門通規』(『増上寺史料集』3)

芸能

『和田合戦女舞鶴』でチャリ場の始まり

3月に豊竹座で並木宗輔(宝暦元年「人物」参照)作の浄瑠璃『和田合戦女舞鶴』が初演されました。和田義盛が北条氏に攻められたときに義盛の3男で怪力の朝比奈三郎義秀が城門を破ったという伝説があり、それを女性の板額に置き換えたのがこの物語の主眼です。4段目の口で鶴ヶ岡の別当阿闍梨が負傷した真似をして敵をあざむく滑稽な語りがあり、これがチャリ場(滑稽な場面のこと。阿闍梨がなまったのが語源とも言います)の最初だと言われています。

参考文献
『歌舞伎事典』
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